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道を外れて歩いたりダンスしたりする方法 2007-2011-2018/no.5

no.4→https://note.mu/extremes_meet/n/n03700ae9eeae

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南半球の国はニュージーランドが初めてだった。
直前まで冬のスキー場で働いていたから、特にその年は春が待ち遠しくて仕方がなかった。でも、私が選んだのは、3月下旬、春分の日。つまり、南半球では夏が終わり秋、そして冬に向かっていく節目の日だった。

まずは、一番の都市であるオークランドへ向かった。
カナダへ行ったときは、無料とはいえ現地のエージェントを通して学校へ通ったりホームステイ先を確保していたけれど、今回は一切決めていなかった。とりあえず、日本人経営のオークランドのホステルを予約しておいただけ。
この1年は、「直感を使う」。そう決めたからだった。

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ところがいざ行ってみると、オークランドは……正直、なんだかなぁという気持ちしか持てなかった。
入国前に確保しておいた宿も、それまで滞在した宿の中で最低だった。シャワーは新しいけれど、水回りは清潔とはいえず、宿泊用の部屋には窓がなく、ムシムシしていて空気がよどんでいる感じがした。スタッフもやる気がなく、集う人の雰囲気も好きになれなかった。
一つがだめだとすべてがだめに思えるもので、物価が高すぎるように感じてなかなかスーパーで買い物もできず、日本から持ち込んだインスタントラーメンを1週間食べ続けたりした。さすがにこれは栄養的に悪すぎると思って、途中、キャベツを買って具材にしたけれど、紫キャベツだったのでおよそ食べ物には見えないラーメンになってしまった。パーリーピーポーの集まるキッチンでひとり、いくら初秋とはいえ、ハロウィン限定メニューのようなラーメンをすするのは、とても惨めな気持ちだった。

私は新しいところへ行ったり始めたりすると、慣れるまでの一定時間パニック状態になってしまい、まともな判断ができなくなるのだれど、このときもそれが起こってしまった。「ああ…どうしよう、間違った、失敗した」と決め付けてしまい、早くもニュージーランドへ来たことを後悔し始めたのだ。2週間で何がわかるのかと思うけれど、当時の私は「直感に従いさえすれば」全てうまくいく(=楽しい)と信じ込んでいたのだった。

これからどうしよう、と早くも途方に暮れていると、幸いにも同じくワーホリでニュージーランドへ先に来ていた友人が声をかけてくれ、南島の旅に同行させてもらえることになった。オークランドはもうこれ以上滞在しなくて良いと思ったので、その旅の中で、気に入った町があればそこで定住することにした。もしピンと来なければ、行こうと思った町も決めた。それはネルソン。
海外旅行ガイドの定番「地球の歩き方」で知った町だった。決めた理由は、カナダにいた頃、偶然滞在してとても好きになった町の名前と同じだったから。そういうのが「直感を使う」だと思っていたのだった。

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友人のおかげで、南島のたくさんの町へ行くことができた。
けれども、「ここがいい!」と思えるような強い確信がもてる町はなかったので、結局、ネルソンへ向かうことにした。早速フラットを借りたものの、いざ住み始めてみるとオーナーがなんともきな臭い夫婦だった。詳しくは気持ち悪いので割愛するけれど、60歳を超えた夫に手を出されそうになり、とても怖かった。
その日から、スーツケースでドアの前にバリケードをつくって過ごし、必死で逃げる先を探した。
ニュージーランドへ来てまだ1か月程度だったけれど、私はだんだん混乱しつつあった。直感に従っている「はず」なのに、うまくいかない、と。

* * *

荒野に「下りて」、5年くらいが経っていた。
私はとても疲れていたのだと思う。右も左もわからない状況にも、自分あちこちに傷ができることも。
その隙に、巧妙に信じようとしたんだろう。新たな神様を。
自分ではなく。

いま思えば、ただ、ニュージランドへ行くと決めたその時の気持ちを思い出せばよかっただけだったのに。
もっと、いろんな場所へ行っていみたい。
もっと、いろんな人に会ってみたい。
そういう、単純な思いに立ち返れば、私はその通り新しい経験ができたんじゃないかな。
でも、私があの頃したのは、「『直感に従いさえすれば、何もかもうまくいく、楽しい』はず」だという、意味を歪めた考えを、強く信じようとしていたこと。

* * *

私が、決まったことをこなすことが得意なのは、残念ながらその通り。
やることさえ決められてさえいれば、ただそれをやればいい。
だから学生時代は勉強ができた。私は賢いわけでも、人より秀でているわけでもない。勉強はするもの。やりたくないとか嫌いとか、そういうのがよく分からなかったから、費やす時間が長かっただけ。だから、成績が良かった、それだけだ。

ところが荒野に「下りて」以降、決まったことは何一つとしてなかった。
変化という苦手なことばかりで、移動ばかりして、新しい環境に移ってはパニックになって、自分はいったい何をしているんだろうと、いつももどかしく思っていた。せっかくの荒野なのだから、自由に好きなようにやれればいいのに。
それなのに、なぜかできない。どこにも行けない。
じゃぁ得意だからと舗装された道へ戻ろうとすれば、言葉通り心が死にそうになる。好きだから変化を選ぶという主体的な感覚はなく、死んじゃうから選ばざるを得ないという、逃げ道のない感覚がいつもあった。

そういう、決まったことしかできない私が、もうずっと、本当に本当に嫌いだった。
心底つまらない人間だと思っていたし、自分で決めていける人、自分で選べる人に強く憧れる。自分で何かを生み出せる人に。今だってそう思う。
外国では、「これだ」というものに出会って、それに邁進している人に良く出会った。日本でも出会うようになった。
そういう人と出会ううち、決まってさえいれば、自分にもできるのだから、まずは決めねばなるまいと思うようになった。でも、他人に決めてもらうのではこれまでの繰り返しになる。じゃあ、自分で決めるしかない。そのためにはどうするか。
素敵な人たちが、「直感に従っている」と言うから、自分もそうすればうまくいくはず、と思ったのだった。

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もういい加減に、ポジティブな理由や気持ちで、決めたかった。消去法じゃなく、自分がやりたいからやる、そうしてみたかった。
荒野で。

* * *

ところが実際には、私はいつのまにか、また「従う」なにかを探していたのだ。
つまり、前は「世間や常識」だったそれを、「(自分の)直感」という、耳障りが良く、解釈の幅もあるものに挿げ替えただけのこと。当時は本当に自覚がなかったから、やっかいだった。

私は、物心ついたときから、絶対安心の導いてくれる何か、が欲しくして仕方がなかった。
ある時まで、いつも「導いてくれる」存在をものすごく欲しがっていた。(正直、今も少し気を抜くと、それを探している自分がいないとは言えない。)

本当は、親に導いてほしかった。
でも、残念ながら私が本当に困ったとき、悩んだとき、自分が考え付く以上の回答が得られることはなかった。
親に限らず、自分が理解できる以上のアイディアや、方法を知っている大人は、身近にはいなかった。「それはわからない」と言われると、とてもがっかりした。それなのに、「好きなようにやりなさい」と言うのだ。
親は、その言葉で私に自由を与えたと胸を張る。昔、自分たちが欲しかった自由を与えた、と。
けれど、言葉の奥の奥や、深いところにある根のようなものを、私はひしひしと感じていた。本当の本当に、父と母が思っていること。「こう育ってほしい」という、強い願い。自由とは、本来その形すら、人によって形は違うはずなのだから、彼らのいう自由は、彼らが信じる幸福の形の「中でなら許される自由」でしかない。恐らく私の自由とは形が違ったはずだ。それがどうにもずれていて、噛み合わない。

「好きにしなさい」という聞こえる言葉と、その背後に感じる、見えない「こうしなさい」という言葉に私は混乱した。そして、二人が自分たちの二重の言葉に気づいていないことに心底がっかりした。
本当のことを言ってほしかった。矛盾しない言葉で、伝えてほしかった。
どちらもつっぱねる強さがあればよかったけれど、結局、私は「見えない」方の言葉に従ったのだ。弱くて、自信がなかった。(今は、親は親のやり方で、私を愛し大切に育ててくれたと理解している。)

* * *

導いてもらえる存在がいないなら、自分で決めれば良かったのだけれど、困ったことに私は自分自身のことが、何より信じられなかった。自分を信じられなかったら、決断するなんて無理だ。
いつのまにかそうだったので、日々少しずつ、自分への信頼をすり減らしていたのだと思う。(その理由は今は気づいているけれど、それだけでとてつもなく長くなるので、ここでは触れない。)

「こうじゃない」「そうじゃない」と思うのに体が勝手に動くとか、反対に、「こうしたい」と思うのに体がどうしても動かないとか、そういったことが良くあって、本当に自分がどうしたいのかが結局、わからないということが日常というより大事な場面で多かったから、というのがあると思う。

だから、本当の本当は、自分で決めることが、怖かったのだ。自分を信じられなくて。
しかも、自分が決めたのなら、結果がどうであれ、責任を取らなければならない。
失敗したらもう二度と取り返せない、死ぬしかない、と本気で思っていたから、失敗するのがとても怖かった。
その考えを変えるには、その強固な思い込みを、思い込みとは矛盾するような、新しい経験で上塗りしていくしかなかった。
人は、自分の常識が変わることを、本能的に避けるという。
例えその常識が自分を害するものであっても、変化=生存を脅かす、だから拒絶すべき、というパターンが、本能にはあるらしい。

死のうとする直前まで信じていた価値観を変えていくには、その後に自分が自分で創った体験が、歪んだ価値観を超えるまで新しい経験を積み重ねていくしかなかった。
でも、二十何年、信じた価値観は、そんなに簡単には壊れてくれない。いつも緊張して、びくびく怯えて、しまいには病気と診断されて、薬まで飲むようになっても、手放さなかったのだから。

* * *

カナダで味わった自由さや、喜びといえるような心地よさは、本当は自分で決めるということ、つまり、自分で責任を取るということの爽やかさだったと思うのだ。
それは私にとっては新しい感覚で、想像していた「自由」とは全然違うものだった。
心の奥底では、この新しい感覚をもっと味わって、新しい常識を育てたいと思っていた。

その前に、直感だなんだという前に、私は気付いて、認めなければならなかったのだ。
本当は、誰かに決めてほしいとずっと思ってきたことに。
本当は、全部親のせいにしてきたことに。
本当は、自分のことが心底信じられなかったことに。

カナダで過ごして、本当は気づいていたはずなのに、いじけた思いが最後まで手を離させようとはしなかった。
だから一見「それっぽい」ことをつなぎ合わせて、うまく歪めて、楽になろうとしたのだ。

……これまでの自分が報われないじゃないか。
……もっと早く気づいていれば、もっと早く自分で選んで檻を破っていれば。
……そんなこと言ったって、あの頃の私は救えない。あの時間はもう二度と返ってこない。
……こうじゃない、そうじゃない、そう思うなら、飛び出せばよかったのに。

自分が全部選んできたと認めるまで、いじけた私は本当にねばった。
……でも、枠を出る行動はできない、しないことを選んできたのは、私じゃないか?

* * *

結局その年、私には春と夏が来なかった。
私は、南半球に夏が来る前に、帰国を決めてしまったのだった。

「直感」とはどこかからもたらされるものだと、外ばかり探してしまった。
直感だろうが何だろうが、全ては自分から「出てくる」のだし、自分の「内にある」ということを、認めたくなかった。
誰かのせいにしたかったし、誰かに決めてほしかった。
自分なんて信じられなかったから。
自分を殺そうとした自分なんて、本当は二度と信じたくなかった……。

飛び出せなかったのは、私だ。
飛び出さなかったのは、私だ。

私は思いっきり間違えた。
「失敗」した。

もう私はとっくに大人なのだ。
責任を取って、いい。
舗装された道からも、もう降りてしまった。
私は、いま、荒野にいる。


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