2011.3.11東日本大震災を忘れないために当時を振り返る
今日2020年3月11日,東日本大震災から9年という時が経ちました.
あれからもう9年かと思うと同時に,あれから9年も経ったのに復興は進んでいるのかともどかしい気持ちになります.
東日本大震災の惨劇を忘れないため,当時の記憶をとどめておくため,そういった理由で,直接的に被災したわけではありませんが,間接的に影響を受け大きなショックを受けた当時の自分を回想しながらこの記事を書こうと思います.
当時,僕は高校3年生で大学受験の真っ最中でした.僕は第一志望校の前期試験に落ちて,志望校を変更して後期試験に向けて勉強をしていました.(といってもあのときはショックを少し引きずっていたので,勉強もあまり身に入らずでしたが...)
あの日は,後期試験で受験する大学が実家の地域から離れていた(どちらも関東圏内)ので,試験日(3月12日)の前日で,前泊のために大学近くのホテルに向かって新幹線に乗っていました.一般的にどうかは知りませんが,僕は一人でホテルに泊まる予定だったのと,普段新幹線に乗る頻度も多くなかったので,ものすごく寂しい気持ちだったのと緊張していたのを覚えています.少し時間に余裕をもって到着しようと思っていたので,新幹線に乗ったのは午後1時半くらいだったかなと思います.
新幹線車内では,多分僕と同じく受験で移動している男の子が母親と一緒に僕の隣で乗っていました.正直そのときは,音楽を聞いて気持ちを落ち着けたり,赤本に目を通したりしながら過ごしていました.
新幹線に乗って1時間弱乗ったかなという頃に窓の外を眺めていると,さすがにここでは止まらないだろうと誰しもが思う高架橋のど真ん中で新幹線が減速し始めました.そしてその後,社内の電気が消え,少し暗くなります.
「東北地方沖で地震が観測されたため,緊急停車しました.お客様にはご不便おかけしますが,今しばらくお待ち下さい.」
確かこんなアナウンスが流れたと思います.ざわつく車内.ただ正直この段階ではまあこんなこともあるかと対して気にしていませんでした.ですがその直後,グラグラと体感したことのある地震の揺れが来ます.「これか」.そう思った矢先,突き上げるようなとんでもない地震が来ました.車内から見ると,車体が倒れるかと思うぐらいものすごく揺れました.体感では10分ぐらい揺れていたんじゃないかと思うくらい長い地震でした.地震が止んだしばらくすると,
「東北地方沖で非常に大きな地震が発生しました.急遽運行を見合わせます.現在状況確認中です.」
「まじかよ」.正直そう思いました.明日試験だよ?ホテルに夜遅くなるの嫌だよ?こんなことを思っていました.ただ,ここからが本当に辛かったです.なぜなら,おそらく利用者数とインフラの損傷等があったのでしょう,ネットも電話回線も繋がりにくくなり,情報がアナウンス以外一切入らなくなったからです.
隣の受験生の母親が話しかけてきました.「もしかして受験生?うちの子もそうなの.大変なことになったね.」「そうですね.どうなるんでしょう...」そこから少しその男の子ともおしゃべりしましたが,内容は覚えていません.またしばらくしてアナウンスが入ります.
「大きな地震の影響により,全線で運転を見合わせます.この車両は,このあと最寄りの◯◯駅まで徐行運転で移動します.その後,運転見合わせとなります.再開の目処は現在経っておりません.」
まだ子供でしたが大人がややパニックになっているのは感じました.そこから歩くのと同じ速度かと思うくらいゆっくりとした速度で,最寄りの駅まで徐行運転し,駅に到着すると停車しました.
ぞくぞくと降りていく大人たち.状況がわかっていないことと,明日は試験ですから,僕は降りるわけには行きません.でもそこから,1時間,2時間と時間が過ぎますが,運転が再開する見込みはなさそうでした.
乗っていた人たちが食べ物や飲み物を求めて車内販売に長蛇の列を作っていました.トイレの列もできました.車内には,僕らを含め座っている人と列に並んで車両の端から端まで座っている人がいました.時間がどんどん過ぎ,食べ物や飲み物が底を尽き,フラストレーションの溜まった大人達の喧嘩まがいの言い合いも目にしました.みんなパニック状態になっていました.
親からのメールでとても大きな地震が起きて,ニュースはそれでもちきり,世間もパニック状態だと連絡が来ました.親は僕を迎えにいくために,車で◯◯駅まで数時間かけて向かっている途中だったようですが,とんでもない大渋滞で一切身動きが取れなくなっていたようです.電話で親と話すこともできず,大学も受験を中止にするような声明は出していませんでしたので,不安で泣きたい気持ちでした.
帰宅難民となった乗客のために車中泊の案内が流れます.初めて新幹線で車中泊をしました.自衛隊の方々が来て,乾パンと烏龍茶と毛布を1枚配ってくれました.ただ,不安な気持ちは解消されないまま一切眠ることができずに一夜を過ごしました.
明け方になると,どうやら各大学が後期試験を延期もしくは中止にするような声明を発表しだしたようだ,と親からメールがありました.僕が受験する大学はまだでしたが,新幹線が運転を再開する様子もありませんでした.隣の男の子が受験する予定だった大学は中止の声明を発表したようで,横で安堵している彼を羨ましく思っていました.結局,試験会場近くのホテルに行くことは諦め(半分受験も諦めて浪人を選ぶくらいの気持ちで),停車していた新幹線の駅の最寄りのJR線が再開するかもしれないと案内があり,新幹線の乗客みんなで長ーい列を作ってぞろぞろとそのJRの駅まで向かいしました.
ただ,JRの駅もすぐには運転再開とはいかず,僕が行きたい大学方面の電車は一向に動きそうにありません.試験時間が9時〜で現在7時半.「万事休すか・・・僕の受験はこんな形で幕を閉じるのか・・・」と思ったその時,大学から試験中止となった声明がHPに出たと親からの連絡があり,崩れ落ちるように実家へ帰る方面の車両に乗り換えました.
地震によるパニックのショックと浪人確定が回避できた安堵で帰りの電車のことは覚えていません.
実家に帰り,テレビでニュースを見ると,信じられない光景が目に飛び込んできました.津波に飲み込まれ,濁流に埋まり,ところどころで火災も発生している東北地方の映像.「え,なにこれ...」.正直言葉も出ず,ただただニュースに流れる悲惨な映像をみるだけしかできませんでした.映像を見ているだけなのに心がドキドキして,呼吸がしにくくなりました.死者の数や行方不明者の数も時を追うごとにうなぎのぼりに増えていきました.
「これだけ離れててあれだけ大きな地震だったんだから,ただ事じゃなかったんだ・・・」
そしてその後,さらに惨劇は続きます.福島第一原発のメルトダウンと放射性物質の漏洩です.これは書いている今でも言葉が出ません...地震大国日本での原発のあり方について多くの人の意識が大きく変わったものと思います.
結局,僕の受験はセンター試験の結果のみで合否判定となり,無事合格することができました.
すべてのテレビ番組がニュースで地震を取り上げ,テレビCMは各社が自粛したために,ACのCMのみが繰り返され,頭がおかしくなりそうでした.複数台の原発が止まったことで,部分的に電力の供給を止める「計画停電」も実施され,僕の実家でも定刻に電気が消えました.大学に入ったあと,実家が倒壊した福島出身の友人や,震災をきっかけに反原発派になった知人もいました.
1万5千人もの人々が命を奪われた大災害だったわけですが,多くは津波に伴う溺死だったそうです.あれからボランティアの方が多く被災地を訪れていると聞きますが,9年経った今でも被災地の7割の人が復興が進んでいないと感じているようです.時間がかかるのはもちろん承知ですが,震災の余波は未だ濃く残り続けています.
直接被災したわけではない僕ですらこれだけの影響を受けたので,被災した方々が受けた現実には同情すらできません.亡くなった方々に,追悼の意を改めて表するとともに,今後の早期な被災地復興を願います.直接なにかできるわけではありませんが,募金など間接的にでも自分にできることには尽力します.
拙い書きなぐりの文章ですが,東日本大震災から9年たった今,改めてあの悲劇を忘れてはいけない,記録に残さなくては,と思った次第です.
ここまで読んでくださりありがとうございました.
(現在日本では新型コロナウイルスのパンデミックにより国民的にパニックが起きています.こういう非常事態に慌てて自己中心的になっていては,3.11.の教訓が生かされていません.非常事態だからこそ,皆を思いやった行動が必要だと思います.またこの記事を見直すくらい時間が経った頃には,事態が収束していることを祈ります.)
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