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アメリカ:カトリック誌、『カトリック教会のカテキズム』のドイツ系デンマーク人共著者を追悼

USA: Catholic magazine remembers German-Danish co-author of the Catechism of the Catholic Church

アメリカの『National Catholic Register/ナショナル・カトリック・レジスター』誌で7月6日、デンバーの聖ヨハネ・ヴィアニー神学校(St. John Vianney Theological Seminary, Denver)で神学を教えるアラン・フィミスター教授(Alan Fimister Ph.D.)が「カトリック教会のカテキズムの隠れた共著者」と呼ぶダグニー・マリア・ケアガード教授(Prof. Dagny Maria Kjaergaard)についての回顧録を掲載した。彼女はクリストフ・シェーンボルン枢機卿(Cardinal Christoph Schönborn)の側近であり、奉献された処女(consecrated virgin)であり、聖ヨハネ・パウロ2世がウィーンに設立した国際神学研究所(ITI、International Theological Institute)で最後まで神学を教えていた(5月8日帰天)。


ダグニー・マリア・ヒューベルティン・ケアガード教授(Prof.Dagny Maria Hubertine Kjaergaard )は1933年、ドイツのグライフスヴァルト(Greifswald, Germany)で、デンマーク系ドイツ人のルター派の家庭に生まれた。ヒトラーが政権を握った後、一家はデンマークへの移住を決めた。しかし、1940年にナチスがデンマークにも進駐してきたとき、当時7歳だった彼女は独自の方法で反対を表明した。イギリスびいきの彼女は、愛国的でかなり難しい歌『ルール・ブリタニア/Rule Britannia(統治せよ、女神ブリタニア)』を覚え、唖然とするドイツ兵の前であえて全曲を歌った。幸いなことに、彼女には何も起こらなかった。

しかし、彼女のこの妥協を許さない性格は、後に信仰と神学の分野で知られるようになった。彼女はルター派として洗礼を受けた。しかしある日、カトリックの行列を見る機会があった。彼女は「あれは(聖体顕示台のなかにあるもの)何ですか」と尋ねたところ、「あなたを愛しておられるイエス様です」という答えが返ってきた。後に彼女がカトリックへの改宗を決意したのは、おそらくこのことが影響しているのだろう。両親はそのことを聞こうともしなかった。堅信の年齢に達したとき、式では「あなたはルーテル派の信仰に従って生きることを誓いますか」と質問されるが、これに対してダグニーは、「式が行われ、この質問をされたら、私は『ノー』と力強く答えます」と宣言した。両親は結局、彼女がカトリックに改宗することを認めた。彼女は私立のカトリック学校に通った。14歳の時にルルドを巡礼した際、彼女は奉献された処女になることを決意した。

第二バチカン公会議当時、ドイツ系デンマーク人の彼女は、ベルギーのドミニコ会系の大学(Dominican universities, Belgium)、スイスのフライブルク(Freiburg, Switzerland)、そしてローマのアンジェリカム(the Angelicum, Rome)でカトリック神学を学び、聖なる神学(Sacred theology)の博士号を取得した。第二バチカン公会議後も、彼女は最終的に奉献された処女への召命を果たしたいと考えていた。彼女は母国スカンジナヴィアの司教にそれを求めたが、司教は「新しい公会議の精神に照らせば、このような時代遅れの習慣はやめるべきである」と決定した。

しかし、ダグニーは断固としてゆずらなかった。ローマで彼女は偶然、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿に会い、自己紹介をして助言と助けを求めた。その結果、前述のスカンジナビアの司教はすぐに教理総監から「なぜ猊下は、『処女の奉献(The Consecration of a Virgin)』を時代遅れのものとお考えなのですか」という手紙を受け取った。当惑した司教は即座に同意すると答えた。これは1989年3月25日、枢機卿が年に一度の修養会を開いていた修道院での出来事であった。

彼女は、後の教皇ベネディクト16世を聖人と仰ぎ、生涯を通じて尊敬の念を抱いていた。ITIの神学教授だった彼女は、『朽ちるべき体は魂の重荷となる』という知恵の書9・15の一節を学生に説明したことがある。その時、彼女は、「私は、時の終わりに、この肉体を新たに受け取るその瞬間を待ち望んでいます」と述べた。そして、「ベネディクト16世の慈愛に満ちた顔を見て、この肉体がいつか神の栄光のうちに(より高いレベルに)引き上げられることを理解することができました」と語った。数年後、彼女の知人からローマの教皇に『ウィーンのダグニーからの挨拶』が伝えられたことがある。「はい、私はこのトミスト(Thomist、トマス主義、トマス・アクィナスの思想、教説の信奉者)を覚えています」と教皇は返事をした。


ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルン枢機卿は、ダグニーがまだフライブルクの学生だった頃に彼女と出会い、『カトリック教会のカテキズム』(CCC)の編集に協力するよう彼女を招いた。この記事の著者によれば、このカテキズムの作成は、とりわけ、第二バチカン公会議が革命ではなく、継続であり、もう一つの教会会議であったことを示すことを意図していた。「そのためには、ダグニーのように教会に奉仕する純粋な意思と明確な神学的ビジョンを持った人物が必要でした。カトリックの正統性に対する独特の感覚を持つこの勇敢な女性にとって、機は熟していたのです」と著者フィミスターは書いている。

カテキズム(CCC)の本質的な部分の概要が発表された後、神学者はそれについてどう思うかと尋ねられ、「私が改宗した信仰とは違う」と答えた。そこでドミニコ会の元教授が、『よりカトリックの精神に沿った』文章に修正するように起用された、カテキズムにおけるそのような難しい問題のひとつは、何世紀にもわたって異なる解釈がなされてきた『予定説(Predestination)』であった。ダグニーは、この問題に関連して、夜中に目が覚め、背筋をピンと伸ばして座ると、「ドミニコ会士は正しい」と叫んだことがあったと元教授は回想している。

聖ヨハネ・パウロ2世が1996年にウィーンにITIを設立したとき、彼女はそこで神学を教えるように依頼された。そこで招かれた客員講師が講演し、その論旨が正統派から逸脱する兆候を示し始めると、学生たちはその講師ではなく、講演に熱心に耳を傾けていた教授の顔を見つめた。彼女が眉をひそめたとき、何かが間違っていること、そしてすぐに神学論争が起こることは、すでに知られていた。ある時点でそれが疑わしい曖昧さから完全な異端に迷い込んだ場合、彼女の杖が床に叩きつけられ、「ノー」という叫び声が添えられた。

この世を去る準備のために、ダグニーは人生の信条をこう表現した。「私はキリストと教会に生涯を捧げます。私の本当の結婚式、真の誓いは私の死です。そのとき、私は本当に私の花婿に会うでしょう」。

日本で長年奉仕しているポーランド人のドミニコ会士、パウロ・ヤノチンスキー神父は、「ダグニー・ケアガード教授は、ドミニコ会の神学教育機関、ドミニコ会そのもの、そして私たちの修道会のカリスマと深いつながりがありました。彼女は、私たちドミニコ会士やドミニコ会の女性が召命の本質と考えていること、すなわちカトリック神学の正当性のための闘い、さまざまな異端から教会を守るための闘いを表現したのだと思います。なんと深く、美しく、信仰に満ちた人生でしょう」と語った。

Fr. jj (KAI Tokyo) / Washington



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