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愛猫 闘病を終えて

明日で猫が亡くなって1週間です。

「悲しみは沈殿していってたまに何かのきっかけで溢れ出し、そうした時はその波を堪えるしかない」のような文章を猫飼いさんが書いているのを見て、悲しみを忘れるように過ごした1週間だった。

猫が亡くなり、今回初めてお寺で供養してもらった。偶然にもうちの宗派と同じで「あっちに行ったら猫が迎えに来てくれるんだ」なんてちょっと嬉しくなったりしたけど、お寺着いてお経読んでもらってサヨナラの挨拶する時まで、もうめちゃくちゃ泣いた。泣かずにいるの無理じゃない?無理ですよ。

翌日、母と私は成城石井に行ってお気に入りのライオン珈琲を買ったり、米粉のマカロニを見て「グラタン作ろう」とか話してたら、なんだかちょっと気が戻ってきた。

落ち込んでいたらもっと気が沈んでしまう。米粉のお菓子作ろう。そうだ、友達が勧めてくれた呪術廻戦も見よう。

ここで気持ちを綴っていたのも良かった。毎晩いろいろ気分転換して涙も出なくなったかなと思ったけれど、水曜日に猫の納められた骨壷を見て悲しみがすごくぶり返した。

兄は毎日「寂しいなぁ」と言っていて、もう猫をもらいに行きたいようだ。

父は「お前より俺の方がずっと猫と一緒にいたから、俺の方がツライし寂しい」みたいな事を言ってきて、この人はなんで寂しさを分かち合うべき今この時にそういう事を言ってくるのかマジでわからん。ぶちのめす、と思った。

「だいぶ元気になったね」と母に言われたけど、元気になんてなろうとしなければ、なれない。元気になるきっかけを自分で作ってるだけだ。けれど、ふとした瞬間にブワッと悲しみが蘇る。

さっき未使用の注射キットを病院に返しに行かなくては…と準備をした。袋を覗いたら、使用済のキットが2セットしかなかった。前に病院に行ってから2回しか使用できなかったのだと思うとツラくなった。注射を打ちたかったわけじゃなくて、本当はこのキットの数だけ生きている予定だったのに、とやるせなくなった。

感情として、猫が死んでしまった事は悲しく、そして闘病生活は苦しかったんだとわかった。猫の「家族と一緒にいる幸せ」を一番に考えてたけど、悩みや不安がとても大きかった。結局自分の事かと思ったけど、それでも何とかしてあげたかった。できるものなら。今はもう後悔と反省ばかりである。

餌やりを父に任せずに私がずっとやっていたら…父に任せるにしてももっと量の事をうるさく言えばよかった。そうすれば膵炎にならなかったのに。(膵炎になって、免疫低下で白血系が弱まってリンパ腫を引き起こしたと考えられる)

それ以前に、ちゃんと毎年ワクチンを打ちに行っていたら…いずれ白血系の病気になるとしても、もっと先の話だったはずなのに。

全ては結果論である。次に猫を飼う日が来たらもちろん絶対気をつけるけど、もうコタは戻ってこないので…(兄もさっき同じ事言ってた)

やはりしばらくはこうやって波をやり過ごすしかなさそうだ。

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