死を喜ぶ人

以前ぼくは「子どもを産むことは最大の虐待だ」と言った。その考えの変化はない。ぼくにとっては最低最悪で残酷な世界に、新たな命が誕生するなどどいう悲惨な出来事を肯定するなんて不可能だ。もちろん、今まで幸福に溢れる人生を送り、つらい経験もまた幸せを掴むための過程だと思っている人にとっては、子どもを産むことは幸せを感じ、幸せを与えるための第一歩なのかもしれない。残念ながら、ぼくはそう思えるような経験を積めなかったし、もう、積極的に幸せを掴み取るための行動はしない。漠然と生きて、漠然と死にたい。死ぬことが最大の幸福とさえ思っている。

世間は年末年始で賑わっているらしい。ぼくにとってはもはやどうでも良いことなのだが。帰省ラッシュなどで交通量が異常に増え、都市に集中していた人口が地方に散ることで、全国的に事故や事件も増える。人の死は一般的には悲しいことなのかもしれない。それは、死んだ人が愛されていたからに他ならないだろう。ぼくに言わせてみれば、これ以上こんな残酷な世界を経験しなくて済むのだから、とても嬉しいことだ。時々その喜びを声に出すことがある。聞こえた人にとっては不快らしい。ぼくは、そんな人の快不快に配慮した言動を行う余裕などない。常に窮屈な空間にいて、これ以上ぼくを苦しめないでほしいと思う。窮屈で居心地が悪い場所にいながら、ぼくが他人に配慮できるはずがない。

全て思い込みだろう。

思い込みだから変えられるかもしれない。でも、変わらなくて良い。
「人間は存在すべきでない」「人間が存在する必要性はない」という前提がぼくの中で真である以上、思い込みが若干変わったところで、前提に沿わなければ元に戻る。

もしぼくが救われたら、次に感じる苦しみは、乗り越えられそうで、なおかつぼくの能力でも乗り越えられる壁であってほしい。そうすれば、少しは生きることを喜べるかもしれない。

早く死にたい。

もしぼくの文章を気に入って頂けたら、お気持ちを形としてご支援頂けると、今後の活力になります。