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「推し」との心のソーシャルディスタンス。

FCには加入しているものの、まだジャニオタとしての知識が皆無だった私。セカンドコン当落後にジャニオタの世界を知るためにオタ垢を始めた。

同じ人を好きなだけで、同じ趣味を持ってるだけで、どこに住んでいようが、何をしていようが、何才だろうと関係ない。同じ趣味でつながれるフォローフォロワーという「関係性」を手に入れた。ともだちでも、職場の人でも、知人でも、同級生でもない不思議な関係性のひとたち。

共通の趣味を持った「仲間」は現実世界がどんなに苦しくたって、その話題についてはしゃいでいるその瞬間だけは幸せで、楽しい話題が尽きない。ある種twitterという世界は私にとって「夢の国」。

現実世界の「私」ではない「海人担の私」でいることによって、なんだかどこか「強く」なれたような気にもなって、普段なら言えない、できないようなことさえ、できてしまう、言えてしまうようなそんな空間。その「海人担の私」でいられる空間にずっと助けられて生きてきた。


コロナの影響で、余暇が制限されるようになった。現実の「私」を充実させる機会が格段に減った。そんな中で「海人担の私」への依存は強くなっていった。いろんな感情が渦巻く中で時には自分自身が怖くもなるくらいに。

幸せだったはずの「応援すること」が辛くなっていく。独占欲と自負心、一見「誇り」のように見せかけて、ただの「海人を好きでいる自分」への「執着心」。

どんどん深みにはまって、怖くなって、ちょっと心の分散をさせたくなって、別G界隈に流れようと試みた(最近デビューが決定した割とKPと路線の似た例のグループ、そしてあっけなく失敗。笑)


結局、何度苦しくなっても、辛くなっても戻ってきてしまう。

もうやだって思っても結局好きだって気持ちには抗えなくて。

どんどん心の中はすさんで、過激になっていって疲れて。

ずっとずっとその繰り返し。


「海人を好きでいる」以上に「ここにいること」に理由なんて必要ないのに「誰か」(特定のだれかではなくて)の好きの形と比べてしまって疲れてしまってアカウントを変えて。それでもやっぱり「ここにいること」から離れられなくて。


CDを買ってもDVDを買っても雑誌を買っても別に「偉い」わけでもなんでもなくて。ただ見たいから、知りたいから、好きだから、それだけで十分なのに、売り上げや数字にとらわれて大きくなっていく「FC会員数」と「知名度」とそれに伴わない売り上げに苦しくなって。

インスタやtwitterの無断転載、著作権侵害、明らかに「切り取られた情報」が流れてくること、それにどうこう言及することさえも疲れるし、それなりに「上手く」「綺麗な」言葉を紡げる人や、画像加工や動画編集が上手な人が「尊敬」されて「大手」と呼ばれてカーストのようになっていく世界も、トレンド入り、リツイート、ランキング上位を目指そうという風潮、そのすべてに疲れてしまう。

でも、そんなことは気にしなければいい話で、別にただのKPファンが精神をすり減らすほどのことでもない。そんなこと痛いほどわかってるはずなのに、応援してるのか、恋をしているのか、趣味なのか、もうその境目なんてとうの昔に見えなくなってしまっていて。


たかが「趣味」されど「趣味」

どれだけ恋心を抱いたって夢中で追いかけたってハッピーエンドなんて待ってるはずもないことくらいわかってる。

それでもわざわざ苦しくなりに、自ら行っているような。

息のできない沼に自分からハマって行ってるのか。

どっちが前なのか、どっちが未来なのか、わからないような状態になる。


ただ、髙橋海人さんの活躍を。ずっと。できれば、そばで、見ていたいだけなのに。それだけのことが難しい。

余計な感情を全部とっぱらって、好きでいたい。


これからもずっと、長く、好きでいれば、どんどん私の「好きの形」も変わっていって。

いつかきっと、こんな「執着心」さえも「こんな時期もあったなー」って思える日がきっと来るので。今からこれからの未来が楽しみでもあり、不安でもある。この想いはどう変容を遂げていくのか。

はたまた、来年には「髙橋海人?え?ハマってた時期あったな~」なんて言ってるかもしれないし。こればっかりはわかんないよね。

「綺麗な気持ち」でいたいけど、どうしてもそれだけじゃいられなくて。

そんな「光も闇も」すべてひっくるめて愛していこうと思ってる。

そう話す海人さんのこと、今現時点ではものすごく大好きです。

できれば、来年も、再来年も、その先も、、、好きでいられたらいいなって思っています。



ひまわりイエロー担の心の移り変わりの備忘録でした。

お目汚し失礼いたしました。








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