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「見せられる」恐怖/『マリグナント』と『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』

 2021年に公開されたホラー映画、ジェームズ・ワンの『マリグナント』とエドガー・ライトの『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』は偶然にも、強制的に怖いものを「見せられる」映画であるという共通点を持っている。それがホラー映画、ましてや映画の本質であるとまで言い切るつもりはないが、今回は映画において強制的に「見せられる」シークエンスかつ演出が如何なる意味を持つかその2作を通して考察したい。ここでは『マリグナント』と比較した『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』の欠点に言及する。

※両作品のネタバレあり。

恐怖の映画館

 観客は席に着き、一方向のスクリーンを、眼差す。これが映画(館)鑑賞の一般的な形式だ。スクリーンに投影される映像は観客にとっての対象となり、孤立した観客は一つの主観性へと調和される。「見る」主体である観客は映像に魅了され夢を見ているかのような意識状態に陥る。我々は大概、現前する世界の中から対象を選ぶように対象を見るが、映画においてはスクリーンに現れる対象はこちらで選ぶことは不可能であり、イメージ・対象は映画の方から提示される。
 視覚から逃れないという点で、夢と映画は共通していると言えるだろう。悪夢とは、強制的に「見せられる」ものであり、同様に映画における怖い演出とは怖いイメージを「見せられる」ことが基本である。現実において、怖いものを見たくない人は現前する世界から注意を逸らせば良いのだが、夢や映画においてはどうしても怖いものを見ないようにする選択は不可能になる(もちろん目を閉じれば防ぐことができるが、それはスクリーンを眼差していないため「映画において」が成立しない)。
 加えて観客は不動の位置から映画を観る。例えば、ホルバインの『大使たち』(1533年、下図)はアナモルフォーズという、絵の中に描かれた歪曲されたイメージを、鑑賞者がその鑑賞方法を変えることによって見ることが可能となる技法を用いた絵画である。この絵については、絵の下に描かれた「何か」を、絵を斜めから見ることによって「髑髏」であることが明らかになる。対して映画において、観客は自身の鑑賞方法を変えることはない。いわば観客は一つの実測点である椅子に縛り付けられて映画を「見せられる」。映画は動けない観客のために動く対象を撮影したり、自ら動く必要がある。

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『マリグナント』における運動の解放

 さて、ジェームズ・ワンは約15年のキャリアの中でホラー映画の表現を広げていった第一人者と言える。ジャンプスケア(怖いイメージと共に大きな音を出す演出)の乱用者として批判されることもあるが、その不快音と共に怖いイメージや演出を怠らない点は評価に値するだろう。
 彼の一貫した特徴として常に動いているカメラワークが挙げられる。『死霊館 エンフィールド事件』(2016年)の冒頭のシークエンスが顕著であるが、カット割りは多いもののステディカムカメラによって撮影されたホラーシーンは常にカメラが前後左右に動く傾向にある。人間の目線の高さにカメラがあるにも関わらず、その運動は主観ショット(人間の動き)とは言い難い、浮遊感を持っている。椅子に縛り付けられ不動性を強いられた観客はカメラと同一化し、視覚的に「動かされる」。そして観客は自らの意思を問わず怖いイメージへとたどり着き「見せられる」。このカメラワークによる演出は、非ホラー映画の『ワイルド・スピード SKY MISSION』(2015年)、『アクアマン』(2018年)においても引き継がれている。登場人物たちの心情より優先してその動きに同一化することが試みられ、アクションシーンに没入する効果を生む(それを補うためのベタな人間ドラマも用意されている)。

 さて、『マリグナント』でもそのカメラワークによる演出は引き継がれる。進化した、というよりはその仕掛けを物語に組み込んだ点が巧みだ。『マリグナント』は主人公マディソン(アナベル・モーリス)が、謎の怪人ガブリエルによって彼の殺人現場を強制的に「見せられる」物語であり、そのガブリエルはマディソンには文字通り見えないもの(頭の後ろにいた!)であったというオチがつく。『マリグナント』では、マディソンが怖いイメージを「見せられる」際にはあまりカメラを動かさずに、彼女が見ることとなる怖いイメージ・対象に頼った演出が為され、これにより動けないマディソンと観客の同一化が果たされる。一方のガブリエルが能動的に動くシーンにおいては観客を連れてカメラは縦横無尽に動きまわる。能動受動と主客が絡み合う物語にこうした演出の差異が反応し、観客がマディソンの不動の身体に身を委ねた(縛られた)後に訪れる、ガブリエルによる運動の解放は、視覚的快感をもたらす。

ルドヴィゴ療法的非視覚的ホラー映画『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』

 『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』は、主人公エロイーズ(トーマシン・マッケンジー)が夢の中で60年代ロンドンの悪夢を「見せられる」映画だ。夢の中でエロイーズは、サンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)という実在した人物に同一化する点が、観客を重層的に同一化させる作用を導く。マネージャーを偽るジャック(マット・スミス)とのダンスシーンではワンカット長回しの中、エロイーズとサンディが入れ替わりその同一性が強調される見事なカメラワークとなっている。
 しかし、本作で(サンディに同一化した)エロイーズに同一化した観客が「見せられる」ホラー演出は、それ自身が怖いというより、心理的な不快感を経由して怖く見えるといった方が適切であった。具体的には歌手になることを夢見ていたサンディが娼婦として「顔のない男たち」によってレイプされる場面が対象となる。ジャックが導いたその裏切りに、サンディは、エロイーズは、そして観客は絶望し、不快感を抱く。その点においてはエドガー・ライトの意図は成功しているのだろう。
 ただし、視覚的には全く怖くないというか(エドガー・ライトの新作として期待した個人の感想であるが)新しさが感じられない。何がそこに現れるのか、そこで行われているのか。これを視覚的に怖く提示することにジェームズ・ワンの演出は長けているが、エドガー・ライトのそれは、視覚的に見せなくても怖いし、嫌な話であり、なのに同じ状況を何度も繰り返す(顔の後ろにいるガブリエルは映像で「見せられる」から面白いのは明らかだ)。

 「見せられる」恐怖の物語を描くとき、それは脚本によってよりもむしろ視覚的に演出されるべきではないか。その点でライトは手段よりも描かれるものの怖さとその状況の恐ろしさに終始してしまっている。ただし、この脚本についても決して良くできているとも言い難い。
 歌手を夢見る少女が都会にやって来て、男たちに騙され、搾取されていく恐怖を見せる方法なら、現代においてエロイーズがサンディのことを調べていくうちにその事実(歌手から娼婦への転落)と出会う展開にできなかったのだろうか。これは、観客がこれから「見せられる」であろう恐怖を予感させる良いサスペンスにも発展したようにも思える。また、サンディがジャックに殺害される所(フェイク)をエロイーズと共に観客も見ることとなるのも惜しい。これも例えば、サンディが殺されることを現代において資料や、現代のジャックと勘違いされる老人(テレンス・スタンプ)を通して知らされた方が良かったのではないか。それによって、ラストのどんでん返しが年老いたサンディ(ダイアナ・リグ)のただのお喋り解説で果たされるのを防ぎ、そこではじめて何が起こったのか(サンディがジャックを殺したこと)を視覚的に知ることができたのではないだろうか。

 エドガー・ライトの失敗は、一つには、強制的に「見せられる」60年代ロンドンに一貫性を持たせられなかったところにあると思われる。サンディが恐怖を経験する以前の楽しいシーンにおいてはどこに連れて行かれるかわからない「見せられる」楽しさが存在していたが、実際の強姦シーンにおいては何を「見せられる」かわかった上で何度もそれを反復するため、退屈になるし、ただただ不快だ。
 『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』の二つ目の問題は、登場人物の恐怖との出会い(=ショックの瞬間)とともに解ける同一化を引き延ばそうとしたがためにその恐怖を何度も繰り返してしまったことにもあるだろう。ジェームズ・ワンはこれを防ぐために、マディソン/観客を恐怖の現場の第三者として客観的な位置に置いている。ライトもワンを参考に多様なホラー演出があれば、多様な登場人物の被害があれば、それは解決されたのだろうか。しかし、ホラー演出とレイプの相性はあまり良くないと思うのも正直な所だ。手が床から出てくるポランスキーの『反撥』(1965年)の露骨なパロディシーンは怖かったので、性的搾取を映画で描く上で、そうしたメタファーに頼った表現に力を入れても良かったのではないかと思う。『ベイビー・ドライバー』(2017年)の妙に嫌になるサスペンスを演出したライトには可能であっただろう。ただし、ポランスキーやアルジェントなどが監督してきた「少女のヒステリック成長スリラー」を現代にオマージュする際には、一定の問題意識を持って欲しかったのが筆者の個人的な思いだ。ジュリア・デュクルノーの『RAW~少女のめざめ~』(2017年)などを参考にして頂きたい。

文:毎日が月曜日

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