愛とは、なんだろう。

まがりなりにも20年以上生きている僕は、少なくとも何度か恋愛というものをさせてもらってきた。かといって、何を学んできたかと言われてしまうと、「うーん、難しくない?」と返さずにいられないほど、自覚できていない。

小学生のころの初恋や学生時代(中高では「生徒」なので「学生」というのを誤りだと言うのは野暮っていうものじゃないだろうか)の恋愛、この年になっての恋愛というのは、それぞれにおいて考えることが違うにしても、そこには確実に「好き」という感情がはたらいているだろう。

ただ、この年になっての恋愛には、否が応にも「将来どうするの?」なんていう漠然としつつも明瞭に見えてくる不安げな考えが生まれてくることが多い。
その考えが頭の中にふと浮かんでくるごとに、どうしてか、「愛ってなんなんだろう」と思えてくる。


かつての将軍、直江兼続は兜に「愛」の一字を掲げた。なんでも、「愛染明王」という仏教における神様の名前をあらわしたがゆえの「愛」らしい(諸説あり)。

愛に染める明王、なんて尊いんだ。なんて思って調べてみると、そんなことはないどころか正反対に近いほどエゲツない神様だった。力こそパワー、まさに武神のポジションにいるらしい。名前とは裏腹である。

ますます「愛」というものの正体を掴めなくなってきた。
そのとき、ふと昔のことを思い出した。

中学生のころ、たいして恋愛経験があるわけでもないのに、友人の恋愛相談をよく聞いていた。サポートに徹していた。

「◯◯のこと好きなの?ん〜それなら最初アタックしまくって、そのあと引いてみれば振り返ってくれるんじゃない?」「あーあの人、結構なびかないから付き合うの難しいかもねぇ、チョロQ理論(*1)で行こう」

学校からの帰り道、Eメールでのやりとり、休日の食事中、いたるところで、僕はまさにくっつかせ屋になっていた。
しかし、付き合ったあとのことは微塵も考えていないし、なんのために付き合っていたのかは、僕にもわからない。

そこに「好き」という感情があって、一緒にいたいという思いが「付き合いたい」となっていき、でも、その後の景色が、晴天の青く広い空なのか、曇っているのか、はたまた深夜に山から見える夜景なのか、どんなものなのかは、わからなかった。

サポーターは実際に誰かと付き合うという経験を得て、ようやくわかったのだった。
景色なんてない、道を歩く自分の隣に好きな人がいる、それだけのことだった。

なにを言っているんだ、と思われるかもしれないが、誰かと付き合ったからといって、特別、目に見えるものがすべて違ってくるなんてことはまずない。ただ、誰かと付き合うというのは、その相手の時間を自分と共有して、ひとり占めすることを意味している、と納得できた。

ただ、人間の感情ってやつは、景色なんていう見える世界がある程度に一定された生優しいものなんかではなく、天気のような、少しは予測がつくもののその天気によってあらゆることが揺さぶられるものなんだから、人間と人間が付き合うなんて、かなり難しい話なのだろう。

「明日ぜったい晴れるよね?」「うん!明日は快晴!」とときおり確認しなければならない。自分の予想通りの応えが返ってくるのなら良いが、ときに「いや、明日は雨降るよ」と言われたり、ときに「明日は晴れるかな」と言われたけどもその明日になってみると「ごめん!やっぱ雪降るわ!」なんていうことも、あり得ない話ではない。

それでも、人は誰かを「好き」になって、誰かを「愛」する。そこまで「愛」というものを求めるのは、なんでだろう。

結局、今日も「愛」っていうやつをわからなかった。
でも、案外そんなものなのかもしれない。それで良いんだろう。


(*1) バナナマンというお笑いコンビの設楽統が発案したもの。チョロQは、基本的にある位置から地面に接着しつつ後方に引っ張ることで、前方への動力を得る玩具で、恋愛においても、「引き」を徹底したのち、自身が思う瞬間にチョロQのごとく「アタック」することを意味する。

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