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影を喰う

5月18日。気分が悪い。静かに絶望の獣が心の片隅で力をどんどんつけていっているような感覚だ。なぜ私がこのような苦しみを背負わなければならないのだろうか。(洒落たこと言いたかった)

悪習を否定されると出来ない理由を環境や状況や他人のせいにして逆ギレする。そんな人間は恵まれた環境に身を置いても自分の役割を放棄して不幸を他人のせいにする。


もちろんのこと、ごもっともだ。まごうことなき正論。昔の自分はどちらかというと、そのような思想だったかもしれない。その言葉を隠れ蓑にして、出来ない自分から目を背け続けていただけなのだと今は思う。
この不治の病を持って生まれてくるなどこの身は望んでなどいない。同じ失敗を何度も繰り返し、人に迷惑をかけ、しかしこれをどうすることも出来ない。小学校に入学した時から、そこのところは全く変わっていない。恐らく、死ぬまで「ヤツ」と付き合い続けていかなければ行けない。人の足を引っ張り続けなければならないという事実に突きつけられながら毎日が過ぎていくのだ。今の家族に生まれてくることも望んでなどいない。勿論、ここまで育ててくれた家族には感謝の念があるが、それと同じだけ育った環境に対する憎しみの念もある。病に理解がなく甘えだと強く主張し、出来ないと何故やらないのか、無能だと罵り病院に頑なに連れていこうとしない父。診断結果を参考程度にしかならないと理解を示そうとしない母。症状を改善する薬の相談のひとつも乗ってくれない。もしもっと理解のある親だったらもう少し生きやすかっただろうとどうしても考えてしまうのだ。(話は逸れるが、エゴと愛の違いとはなんなのだろうか?そんなこと考えるのは不毛な気もするが。)それに、従兄弟たちはどんどん成長していき、社会的な成功を得ていく。小4の従弟は既に天才の芽が出ている。そんな家族と対照的に、落ちぶれた人生を生きている劣等感。もうこの歳にもなれば、そんな両親の主張することにも麻痺してくるし、というかその理解のない主張が自分に染み付いてしまって、凝りに凝り固まり、劣等感の塊になってしまって手の付けようがなくなっているので、もはやこれは呪いと表現するのが正しいかもしれない。
自己啓発を隠れ蓑にし、辛い現実から遠ざかれていた過去、しかし今はその言葉ひとつひとつが自分の首を締め付ける。実際に行動に移せないけれど、やった気になっていただけ。目を背けたかっただけだったと今では認めている。
劇的に価値観が変わるなんてことは滅多に起きないなんてことは分かってはいるが、なんとも悲しい現実だ。
とは言っても、チートをしてこの辛い現実とおさらばしようなんて思ってはいない。人に迷惑はかけ続けるし、その度に人は離れていくが、そこそこ面白い人生ではある。不治の病としての短い生を這いずってゆく覚悟だ。
多分、この家族とは早々に縁を切らなければならないのだろう。凝り固まった呪いを祓うには、そうするしかない。独り発ちの季節が少しづつ近づいて来ているのかもしれない。
  ではまた。

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