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死に際の一言。

ひとつ、心に決めている事がある。

私が死ぬ時には、必ず他の誰かへの祝福を言葉として贈りたい。

結婚できなくても、子供がいなくても。

コンビニの店員さんにでもいい。年を取った時必ずお世話になる誰かにでもいい。病院の看護士さんかもしれないし、郵便配達員さんになるかもしれないが、必ず言おうと決めている。

お母さんの死に際の一言は、「神様、まだ今じゃない」だった。令和まであと半月。朝方の4時。私は近くに住む親族に今すぐ来てくれの電話をしている最中だったので聞けていないが、弟が聞き届けた。当時アイルランドに住んでいた妹が、何度も帰ってきて必死にお母さんを看病してくれた妹が、私の知らせを聞いて、今回も考えれる限りの最速の飛行機を乗り継いで帰ってこようとしている一日前の事だった。あれはきっと、妹へ向けての言葉だった。

一日前から容態が急変して、全身にガン細胞が巡り、肺の機能が極限まで落ちて体育座りのような姿勢にならないと呼吸できなくなっていた。体を横にして、寝ることもできなくなった。下半身は前から動かなくなっていたので、私と弟がお母さんの足を支える事でなんとかその呼吸できる姿勢を維持した。

その極限状態で繰り出された言葉が、「あんた達がいてくれて良かった」だった。どう考えても自分の方が辛くて苦しい癖に、想像を絶する苦しさのはずなのに、息も絶え絶えなのに、出た言葉は私と弟へ向けた祝福の言葉だった。

「辛い」とか、「苦しい」とか、極限まで言わない人だった。「痛い」と発するよりも、今日看護士さんがこんな事をしてくれて嬉しかったと話す人だった。この人がお見舞いに来てくれて嬉しいと話す人だった。人の悪いところよりも、良いところに目線を向け続ける人だった。

下半身不随になっても、癌治療の新薬、オプジーボがお母さんの場合効かない上に副作用で腸が動かなくなって人工肛門になっても、体がどんどんボロボロになっても、光へ目を向け続けた人だった。気高く、強い人だった。

その一年後、父方のおばあちゃんが多発性骨髄種の末期になる事で名前が変化するという、形質細胞白血病の診断が下された。簡単に言うと、骨が溶ける病気だった。その進行によって、脆くなった骨はすでにドミノ式連鎖圧迫骨折が起こっていた。こけた訳でも無いのに、おばあちゃんの体の中ですでに5ヶ所が折れていた。その原因がこれだった。整形病院で、ついに腰椎も折れている診断が下された2日後の朝方、下の世話をしていたら出血があったので、救急搬送して貰ったら発覚した。余命は3ヶ月。意識のリミットは後1ヶ月だろうと宣告された。

血の繋がりは無いはずなのに、私の親族はどいつもこいつも背骨と骨髄をやらかす人達だった。そんな所は仲良く無くてもいいのに。

コロナで面会が基本的に禁止の中で、入院した翌日、おばあちゃんの混乱が酷いということで特別に10分だけ会える事になった。93歳、認知症あり。親族の顔を見た方がいいという先生の判断だった。

そこで、最後、もう会えないかもしれないと思った私は笑おうと決めた。笑った顔でおばあちゃんに覚えて貰おうと思った。顔はまぁ我慢するの無理でぐちゃぐちゃになったが、それでも笑って別れようとした。

そこで、意識が割りとしっかりしたおばあちゃんが最後に言った言葉が、「あんたは笑顔がいいね」だった。私への祝福の言葉だった。薬が投与され、痛みを抑えるにしても限界がある。到底抑え切れない痛みの中で繰り出された言葉は、私への祝福だった。

その後、もう治療の仕方は痛みを緩和するだけになるという事で、緩和ケア病棟に入ると、コロナで面会が制限される。私達の病院の場合は、2名までなら毎日少しの時間なら面会できるが、最初に決めた2名以外はもう危篤の時であっても会えないという方針を聞いて、それなら入院で他の親族がもう会えないよりも在宅診療に切り替えたいという私と父の総意の訴えを受理して頂き、家で看取った。今年の7月の事だった。

モルヒネで痛みを和らげる点滴をずっとしていたので、意識が常に朦朧とする中、おばあちゃんが亡くなる最期の朝方に少しだけ意識を取り戻した時間があった。その時に発したおばあちゃんの最期の言葉は、「大丈夫」だった。心配する私の顔を見て安心させようと繰り出された言葉だった。またしても、他者への、私へ向けられた祝福の言葉だった。

私は、この気高く、強い、偉大な2人の生き方を真似たい。

終身介護は、子育てに良く似ていた。

子供いないけど、いたらこんな感じなのかもと思いながら、まだ病気の診断が下される前、2時間ペースで起きるおばあちゃんのトイレの処理をしながら考えた。赤ちゃんの夜泣きに似ていると思った。人はこうやって巡るんだなぁと考えた。

2人とも「ありがとう」という言葉を良く口にした。その言葉を伝える大切さを、2人ともわかってくれている人だった。私は本当に幸せ者だった。

この言葉が無ければ、私は壊れていた確信がある。そのくらい絶大な威力と力の源となった。

だから私も、今後生きる上で、できる限りのありがとうを撒き散らかして生きようと思った。

おばあちゃんが褒めてくれたように、笑って生きようと思った。

そして、人は必ず年を重ねると誰かの世話になる。必ず世話になる。日本はそういう制度で、人間はそういう仕組みになっている。

私はそこで、私がお世話になった誰かへ向けて、

「あなたがいてくれて良かった」と言って死にたい。

「あなたは笑顔がいいね」と言って死にたい。

誰かへの祝福の言葉を口にした後に死にたい。

そして、いつ死んでもいいように生きたい。

後悔はする。必ずする。でも、胸を張れる生き方をしたい。

これが私が決めている、死に際の一言で、生き方で、理想の死に方である。

死を特権的に振りかざす文章を書いて申し訳ないが、当事者になるとどうしても書きたくなる。

これを書き記す事を許して欲しい。

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