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たたかうのはそれではなく


コロナの影響で、ヨガの仕事がことごとく無くなった。

流行り出した頃に、ちょうど運良く神社の仕事を始めたので、お金には困らない現在。

つくづくラッキーだと思う。

だいたい、私の人生、こんなふうにまわる。



にしても、やっぱりヨガのために空けていた時間が空白になるから

つまり、私は暇であります。



この暇な時間が、私はよだれが出るほど大好き。


何も計画してない、空白の時間

自分の体が、心が、どう動き出すのか

まるで他人事のように観察するのが

とってもとっても大好きなのである。


それは無重力空間のようなもの

「生(せい)」というものが、ひとりでに流れ出るのを味わう時間。


私が何かしようとしなくても

私は自ずと何かをしている。


私が何か起こそうとしなくても

自ずと事は何かしら起こる。




私は、自分で言うのもなんだが

暇つぶしのスペシャリストだと思う。

青春時代のほとんどを

長期入院・不登校・引きこもり・ニート

などの活動に費やしてきたからだ。



その甲斐あって今、コロナで外出自粛の流れがやってきていても、

お家の中で自分がどう過ごせばいいのかわかる。

1人時間の使い方も

暇な時間の過ごし方も

自分自身との向き合い方も

あのときたくさん訓練してきて良かったーなどと思ってる。


おかげで今は

呑気にほのぼのと

なんの罪悪感もなく暇を満喫している。

ほんとうに幸せな時間だ。


きっと、私のように

暇つぶしスキルの高い人は

今、充実した時間を過ごしてることでしょう。



ちょっと話が変わるけれど

「暇つぶしスキル」とは

言い換えると「くつろぐ技術」だと思う。


それは瞑想のテクニックにも関係してきそう。

「今ここ」に全て身を委ねる状態。


「すること=DO」への興味が失われて

「在ること=BE」だけが残る状態。


暇が怖くて、あれこれと「やること」を作り出そうとしてるうちは、まだ半人前。

実際、それで暇はつぶせてるのかもしれないけれど、私からみたらそれは「暇つぶし」じゃなくて単なる「生産的な、心が忙しい人」。


いや、むしろ「暇つぶし」という言葉自体がアレなのかな。

言い直そう

暇は、つぶさない。


暇なのを、暇なまま、「暇だなー」と言いながら、

「なにもしない」をしてもよし、

「なにかする」をしてもよし、

要するに

「なにもしない」と「なにかする」の間に

全く価値の差がなくなったら

達人の領域まで達したと言えよう。


その人はもはや人間ではない。


人間を捨てた何者か。

人間オワター\(^o^)/な、見事な存在。


私もだいぶ人間的に終わってはきてるけれど、

こうやって書いてみて

まだまだ修練が足りないと感じる。

伸び代がありそうだ。


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で、暇だから考えたんだけど


全然、主張したいとかではなくて

ふと思っちゃっただけだから

真面目に捉えないでほしいんだけど


今回の世界的な騒動、

たたかうべきはコロナウィルスじゃなくて

「死への恐怖」なんじゃないかと思う。


もし、人間の「死に対する価値観」が

「怖いもの」「忌み嫌うもの」ではなく

誕生と同じくらい「めでたいもの」であったならば


こんなに買い占めも起こらず

こんなに政治家も叩かれず

こんなに不安と恐怖が蔓延することも

なかったんじゃないかと思うのだ。


極端な考えかもだけれど

「ものごとは変化する」というごく当たり前のことと

「生あるものは必ず死ぬ」というごく自然なことを

どうして人間は忘れてしまったのだろう?と思ったりする。




仏教の言葉に「諸行無常」という言葉がある。

あまりにも有名なこの言葉。

ググったら意味はすぐに出てくるよ。

一言で言うと「ものごとは常に移り変わる、それがこの宇宙のことわりである。」というもの。


ずっと続くもののほうが不自然なんだ。

経済がストップした、物流がストップした、

人間から見たら大変なことだろうけれど

きっと仏陀から見たら、ごく自然なことだ。

宇宙から見たら、ごくごく当たり前なことだ。

きっとそれすらも「諸行無常」のルールどおり。

宇宙の「日常」の範疇内。



「生あるものは必ず死ぬ」

これについても、今の人類はみんな「死なない」ことを望む。

なぜ、不自然なことを望むのだろうか?

不自然だから苦しいし

不自然だから怖いんじゃないだろうか?

ほんとうに怖いのは、「死」そのものではなく

自分のやっている「不自然さ」の中にあるのではないだろうか?



神社の神主さんが教えてくれたんだけど

昔は、お葬式のときの黒と白の垂れ幕、

あれ、結婚式の時にも使ってたんだって。


なぜって、「黒と白」は当時めでたい色だったから。


赤と白の垂れ幕が使われるようになったのは、歴史的に見てだいぶ浅いんだってさ。


つまり、昔の日本人にとっては、お葬式も、結婚式と同じくらいめでたいことだったんだって。

あの世への旅立ちということで祝ったらしい。


この感覚、いいよな、と思った。


そりゃあ、私の家族や恋人が死んだら

寂しいから泣くけれどさ。


でも、悲しいという理由では泣かないと思う。


寂しいし、もっと一緒にいたい、とは思うだろうけれど

死なないでほしい、とは思わないだろう。


死ぬべきときに死んでくれ

死ぬべきときに死なせてくれ

と思うだろう。



そして、その死は、明日来てもおかしくない。

変化が当たり前なんだから。

死は自然なんだから。


それを今回のパンデミックは再確認させてくれたように思う。

今までいかに自分が阿呆〜に生きていたか

身に染みて教えてくれた。



だから、たたかうのではなく、むしろ感謝を。

思い出させてくれたことに、感謝を。



人間は、もっともっと自然に、楽に、生きていていいと思うんだ。










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