読めればいいけどね?

 幸いなことに、字の留めハネはらいにうるさい先生に当たったことはなく、むしろうるさいのは親(K)であった。数字と英字は留めだけはらうな、漢字と平仮名に於いては留めるところではらうな、つまり留めが出来ない小学生(L)だったのだなと今振り返って思う。
 知っているか、留めるところを全部はらうと全部の字は画数が1になるんだぜ。
 漢字は特に形が似ていて全然違う意味になることはあるから気をつけてくれたまへとよく教えた結果、読めなくはない字を書ける新高1(L)である。
 小学校の先生がなぜ字を正確に書くことにこだわるか。字を書くのはアウトプットで、低学年では伝達手段での書字を習うのだから人に読める字を書けるようにするってのが課程だからではなかろうか。
 思考の整理に紙に書くみたいな話なら自分が読めれば(読まないかもしれない)いいだろうけど、書字は主に伝達手段であろうから人に読める字を書けるのは人として最低限の能力なのではなかろうか。
 学問のできる人は字が汚いは、研究者や医師に悪筆の人が多い、だから頭がいい人は字が汚いという論理だが、優秀だから字が汚くても良いという結論にはならない。
 とは言え、過剰に留めハネはらいにこだわられても困るので、そこはちょうどいい先生だったことは僥倖であった。
 字がきれいだと学力が伸びる説は、ある程度までは真なりだけど、ある程度を越えちゃうと頭がいい人は字が汚いの方が信憑性が上がって覆るからなんとも言えない。
 ある程度を越えると、とは、年齢がある程度を越えるとだったり、教育課程がある程度進むとだったり、知能がある程度高かったり程度にもいろんなベクトルがあるけど、どこをとっても字の上手い下手に学力の相関はないと思う。
 Kの周りでは親が教員の児童や習字を習ってる子はお手本みたいな字を書いて、成績が良かった。しかし小学校卒業時点では、低学年の時から字が上手い子より、今でも字が上手くないMの方が成績がいい。
 字が上手で成績トップの生徒はいるし、字が下手な下位層もいる。
 逆もまた真なり。
 なので留めハネはらいにこだわりすぎる先生にも、うちの子知能が高いので字が汚くても仕方ないという保護者にも、Kにとっては難がある。
 人に読ませる場合、字をきちんと書けることは社会性の基本なんじゃないか、だから書ける人は丁寧に字を書くスキルを身に付けた方がいい。という信念は小学校の先生にはあると思う。
 一方、知能が高くても高くなくても頭で考える速度(メモをとる速度)に手が追い付かず字が汚い、はよくある話。書ける人なら万人が認識できる文字は書けるようになった方がいいんじゃないと考える教わる側の保護者は思っている。
 Kが高校受験した時に、みんなが自分で書いた願書を見た担任が、みんな字がきれいだった、字の上手い下手に関わらず受かりたいなあと思って一生懸命に書いた字はみんなきれいなんだ、と言っていたことが、Kの書字に関する思想の原点である。
 この担任は大嫌いだったけど。