正解のない問い

 鶴はちょいちょいテレビに映る。校長先生がテレビに出るよ!ってマメにメールで知らせてくれるのでLは映らずともウキウキと録画予約までして見るのだった。
 なんだいなんだい、と悪態をつきながらもLも見るのだが、今回はアナウンサーの出張授業で正解のない問いについて考えていた。
 正解のない問いって好きなんだよな、うちの学校。とLが言う。
 会社の人にその話をすると、数学の好きな人は1つの答え(正解)を求めたがると思っていたけどそうじゃないんだねという。数学は必ず答えが1つになる。国語はそうじゃない。登場人物の心情なんて十人いれば十人の解釈があるから。よく聞くやつ。
 数学が好き=頭がいい高校の人ということのようだけど、Lは数学が好きで永遠に1つの難問(かどうかKには分からないけど)をこねくり回しているけどあれは1つの正解を求めたいというよりは、答えは分かっていてそこに至る別な道を探っているということのようだ。正解があると思っているのではなくて、正解を求めなくてもいいと思っているきらいがある。
 難問にはすでに正解が提示されているしそこに至る簡潔な解法も明らかだが、その簡潔に至るまでは試行錯誤があったに違いなく、それを追求している。公式に当てはめれば正解は出るが、公式はなぜその公式になるのか、公式が発見された課程または公式の証明をしてほしいとか。
 つまり、水垢をクッキングシートで磨くとキレイになるけどなんでなのか、どうしてクッキングシートで蛇口を磨いたのか、というところが問題なのである。ライフハックはどのようにして発見されたのかみたいな話。
 国語こそ正解が1つにまとまらないと、同じ文章を読んでも同じ解釈にならないことになるから、文書で何かを周知することが不可能になるじゃないかとKなどは思っている。登場人物の心情を問うてもはらはらと涙を流す主人公について、狂喜乱舞しているとか答えないと思うんだよ。前後の出来事から悲しい涙かうれしい涙かを読み解く必要はあるにしろ、大騒ぎして感情を表してはいないのは分かる。
 さて、数学好きにはたまらない「笑わない数学」、Kには何をやっているのか全然分からなくてただの面白いエンタメ。第1シーズンは受験期だったし水曜の23時なんて誰が見るんだら、と見ないでいたが今回は土曜の21時半からもやるので見ている。先日の「結び目理論」は最初から何をやっているのか分からずサイコーだった。
 数学者は正解を求めているというか、あるのかないのか分からない正解の証明をしているのだろう。「結び目理論」について言えば、AとBの区別ができる公式(1)が見つかったが、これではCとDの区別ができない。何年もたってからCとDの区別ができる公式(2)が見つかった。でもこれではEとFの区別ができない、みたいな歴史があるそうだ。結び目の区別だけなら2回演算にかければある程度は区別できるじゃんと素人Kは思うんだけど、結び目は何兆通りもあるとかでいずれ区別しきれなくなるんじゃないかとか、やっぱり1回で分かる公式を知りたいと探究するのが学者なんだろう。
 正解はあるんだろうけど、ないんじゃないかってくらいもやもやしている。
 で、公式が「見つかった」という言い方をしたけど、結び目を区別できる公式を人間が発明したのか、もともと自然にある公式を人間が発見したのかどっちなんだで番組は締めくくられて、どっちなんだい、とそもそもそれが分からない。ライフハックも発見したのか発明したのかそう言われると分からなくなる。
 つまりものすごくたくさんの種類があるものを完全に種類分けできるかというと(ほぼ)できないと言って良くて、正解のない問いの正体はこれなんじゃないかとKはぼんやり考えた。
 おれたち庶民は数学に集中している暇はないのでなんとなく正解だなと思う方向に進む。そして数学は苦手だと思っている。
 「探究心の育て方」「不登校の原因」などに正解を求めているおれたち庶民は「結び目理論」が理解できない。
 「探究心」であれば「さかなクンになれなければ不正解か」。でもこれは何兆通りも最適解がある話なので「さかなクンになれなければ不正解」は証明できず「だってあなたの子どもはさかなクンではないのだから」は確実に真である。そこから子どもの傾向をつかみ、目指す方向を探っていくのが正解に一番近い。何兆何億通りもある結び目をひとつひとつ調べていくのがもっとも正解に近いのに似ている。
 正解のない問い、数学が得意な人ほど好きなんじゃないかとKは常々思っている。正解を求めなくていいと思っているのではなくて、正解はいずれ分かるだろう、それは1つじゃないんだろうと思っているのかもしれない。