ひよって学校に電話した話

 子どもの特性をちょろっとググるとタイムラインが不登校だらけになるとは前にも書いたような気がする、ずっとそうだ。
 そんなことはLを育てる上で割と初期から分かっていたし、この国で効率的に学力をつけるのは公立の学校が最も適していることも分かっていたしでなんとしても学校へ通ってもらわなければならないと思ってやってきた。
 環境に左右されやすい子だから、公立中学校にそのまま進んだら勉強しない子に流されて学力が下がるかも知れませんねとは小学校でお世話になった支援級の担任の先生に言われたことだが、その先生とは4年の終わりにお別れしたのだけど(異動になった)、最後に中学受験はしないんですねと進路の確認をされたので、しないとその時には決めていたから、公立中学校へ行って鶴へ行きますと答えておいた。
 その進路なら、Lくんに合っていると思いますと先生は言った。
 しかし、高校受験前に失速しあらゆることがどんどん悪くなって結構悩んでいて、願書を出して締め切られて最後の最後やけっぱちでアイツは竹を受けるとか言い出して、あまりにも他人事で無責任な発言だが、そのようなことを受験する本人が言うのなら、保護者としては変更届を先生に書いてもらうべく依頼をする必要がある。
 変更するには保護者が、今出している高校から願書を引き上げ変更先の高校へ届ける決まりだ。中学校からも書類を出してもらわなければならない。期間は3日間。機会はたった1度、だから変更したくなったら可及的速やかに担任に申し出なければならない。なのでKは可及的速やかに担任に電話をした。
 本来ならボーダーが成績と倍率を見て変更を検討する変更期間なのだけど、志望校の倍率は変わらないし、成績は一応合格圏。Lは変更を考えなくても良い生徒だった。
 それが藪から棒に鶴から竹に変更したいので届けを書いてくださいと電話をしたのだから、イケボはびっくりするわけで、Lに電話を替わり、高校見学鶴しか行ってないんでしょ、亀にも行きました、じゃあなおさらそんな思い入れのない高校受けてどうするんだよ、みたいな会話をしていた。
 今でもそうだが、高校なんかどこでもいい、がLの持論である。どこでもよければ成績に見合った学校を受けるのが世の中の道理で、すると亀は鉄板、竹は低すぎみたいな模試の結果なので鶴が志望校に自ずと決まる。そういう方針で中3の1年間をやってきたのだが、この直前期に解けるはずの数学の問題が全然解けなくなっていてこれはおかしいと。
 高校なんかどこでもいい思想の上に高校受験を自分事として捉えていないので当日白紙で解答用紙を出しかねない。とLについて詳しいKは万に一つのバッドエンドの可能性を知っている。イケボの説得は王道で、しかし鶴にすら思い入れのないLに響くとも思えなかった。
 Kはできれば鶴に行って欲しかった。環境に左右されやすいなら、なるべくなるべく環境のいい高校、偏差値と環境の良さが比例する地方では鶴がベストだからだ。Lが他の高校へ行きたいと言えばもちろんそこを推すけれど、本人はどこでもいいの一点張りだからじゃあ成績足りてるんだし鶴にしたら、ということだ。だから竹を受けたいと本人が(ウソでも)いうならKは竹に変更届を持って行く必要がある。
 イケボはLを説得できず(だって意固地になってるだけなんだし)、電話はKに戻ってきた。学力が下がったというよりは明らかに様子がおかしいだけなのですが、本人が変更したいと言ったので届けを書いてもらわねばなりません。なので書類はいただきたくよろしくお願いします。
 ところで学校ではどうですか。まあ、一番訊きたいのはこれだ。
 とくにおかしな様子はなく、一番得意な数学と一番苦手な英語で見たことない点数を取ったことには驚いているが、元気に過ごしているらしい。保護者は鶴に行って欲しいし本人はギリ受かる成績だし、願書は鶴にすでに出したのだから、本当になんでこの人変更届が欲しいって言うのかイケボは意味が分からなかったのではなかろうか。最後の定期テストでは確かに史上最低点をマークしたが、ギリギリ合格圏はキープしていて大丈夫だから変更すんなと言いたいのだろうけど、先生の立場では大丈夫だから変更すんなとは多分絶対言ってはいけないんだろう、言ってやりたいんだけども言えない…みたいな葛藤が電話の向こうにはあった。
 Lはそんなに度胸がある人間ではないが現実から目を背けたがるところや自分で作ったものを自分で壊してしまうところがある。高校受験はこの人の人生で一番最初の試練なので逃避したいんだろうとは思うがリアルガチの直前で今まで前向きに勉強をしてこなかった勢ですら追い込みをしているというのにヤツは帰宅するとポピーのこころの文庫をただただぼーっと読んでいるだけで(すでにパソコンとゲーム機は封印してあった)、最後の模試でA判定が出た、よーしここを受けるぞ!というノリで願書を書くのが一般的だと思うんだけど、全く逆の展開で、保育園で工作を褒められたのにその作品を壊してしまったときと同じ顔してるんだ。
 模試は解き直せばするりと正解する。学力が失くなったわけではなさそうで、よもや白紙回答とかするんじゃないか?なら、勢いで出たやけっぱち竹に変更する宣言を鵜呑みにしてやろうじゃんか。
 そういうわけで親子のごたごたにイケボを巻き込んだのだった。すみません先生。
 それで、先生がいくら逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだと言いたくても、学校は家庭から変更届をくださいと言われたら出さないわけにはいかないから、次の日Lは持ち帰ってきた。これを出して願書を引き上げたら絶対鶴を受けられなくなるし、変更はたった1回だけしか認められていない。願書そのものより恐ろしい運命の書で、Lには本当に変更するのかもう一回真剣に考えろと言い渡し、中を見るとイケボが見本を書いてくれて、その字がものすごく読みづらい。
 読めないなあなんて書いてあるんだろう、などとその運命の書を穴の開くほど見て、で、どうするの書くの?書かないの?おかあさんは鶴から竹へパシるのはイヤなんだけど。と、いよいよ提出日前日になって真剣に話をふると、つるうけますとちいいいいっさい声で答えた。
 その後、学校へ電話をしたがイケボは部活中なので折り返しいただくようお願いしたが、すぐその後に電話が来た。ああ、早々に折り返しいただきましてありがとうございます、というと、えっ?と戸惑った返しが来て、よもや先生からの電話だ。
 ちいいいいいっさい声ですが、つるうけますと言ったので変更はしません。ご対応いただきましてありがとうございましたと述べ学校での様子を尋ねると、きわめて朗らかで、どこ受けるか決めたか先生が訊くと、鶴受けるっス、と答えたとか。どんな様子で?えっ、明るく鶴受けるっスって言ってましたよ、じゃあ変更しないんだねと念を押したら、はい、って。
 そういうのは先生じゃないと分からない様子だなあと感じ入る。
 Lくんならやってくれると思います。
 と、素晴らしい美声は言った。細かいやりとりは覚えていないけど、これだけ鮮明に覚えている。
 Lくんならやってくれると思います。
 使わなかった変更届は記念に取っておこうかとも思ったが、変更しない意思表示は大切だなと思って、学校へ返した。
 何故変更しなかったの?今のままのLくんは受かるかどうか分からないよと訊くと、竹は人気があって倍率が高いから受からないかも知れない、鶴は受からないかも知れない。だから変更しないことにしたと禅問答のようなことを言った。そしてこころの文庫を読んでいた。どうせ変更するつもりはなかったんだろうし、竹を受けるとかただの親への反発で口から出ちゃったんだろうし、学校に電話しやがっておれの親め!と思っているんだろう。
 ケッ。
 それで入試当日、Lが出かけるのを見送ってすがすがしい気持ちになったのだった。
 で、首の皮一枚、受かったのだった。
 結局、周りの生徒に流されず中学校生活を終えた。その点支援級の担任の見立て通りではなく、流されていたら定期テスト400点をキープし続けて入試に向かってどんどん成績を下げるなんてことにはならなかったはずだ。
 腐ったまま入学してその後も、夏が来る前に高校を辞める辞めないの話にはなったし(本当に鶴にすら思い入れはなかったのだ)、しかし毎日登校していてどういう心情で通っているのだろうか、と謎が深まるばかりだったが、1年間皆勤賞だった。
 年度末に授業で描いた絵を持ち帰ってきたが、校内を描いた風景画はものすごくちゃんとしていた。飾っておいても壊したりしない。いい学校へ行けばきっと大丈夫だからと支援級の担任の見立てはその点正しかった。
 やってくれましたねと言われたかったが、その後イケボと話をする機会はなかった。お礼を言いたかったなあと思っている。