読後感想文『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』

 気になる概念だったので読んでみた。分かったことは一つ、新書ってあんまり表題のこと書いてないよね。読後と書いたけど3割読み飛ばしました。
 答えの出ない事態に耐えられない。
 悩める現代人に必要なのは共感すること、寛容さであるとか。なるほどトランプ氏よりもメルケル氏の方がうまくやっている。気がする。国を治めるという視点に於いて、人を集団で十把一絡げに考えるのではなく、一人一人に個々に共感すればまあ、俺の国だけ良ければいいみたいな考えにはならないということだ。
 で、共感と寛容はネガティブ・ケイパビリティが根底にあると。
 共感と寛容までは分かるんだけどなんでそれがネガティブ・ケイパビリティなのかが分からない。
 現代教育が養成するのははポジティブ・ケイパビリティであり、問題の設定とそれに対する解答を教えることだと。しかも問題解決に時間をかけない方がより優秀とされる。
 量産工場の、不良を出さなきゃ早い方がいい、的な考え方で教育もなされている。解像度8ビットでも流せるならいいけど相手はヒトだし一人一人違う人だから、解像度は256でも1024でも細かければ細かいほどいいのだけどそこまで一人一人に寄り添いきれないから、量産型が現代の学校の在り方だ。
 すると圧倒的にポジティブ・ケイパビリティの効率がいいのは自明だし、不良を出さなきゃ早い方がいいのは人類が求めて止まないことだと思う。
 ポジティブ・ケイパビリティはやり方教えたんだからすぐできるよねできない人はクビ、みたいな態度で、ネガティブ・ケイパビリティは最初は失敗するよね、と待つ態度だと分かって、上手い人はすぐにできるようになるかもしれないが下手な人はいくつか失敗して時間をかけてできるようになる。寛容であると分かる。人を育てる態度としては待つ態度は重要だ。結果として上手い人はもちろん下手な人もその仕事ができるようになるので人財は増える。
 トクだ!
 寛容は投資みたいなもんか。
 共感は日薬とか目薬とか重要なキーワードとして出てきて、日薬は時が経てば治るよと信じて待つ、目薬は頑張っているところを見ていますよ、ということらしい。精神科医である先生がいくつか症例を出して説明していて、患者は結構どうにもならない問題を抱えていて問題はどうにも解決できない(なくせない)んだけど、先生のところに通って先生と話をして帰るみたいな診療。問題はアレやらコレやらで先生の手が及ばないことばかりで先生は話を聞いてやるしかできない。
 ネガティブ・ケイパビリティはこの場合先生の側に必要で辛抱強く、出口のない患者の迷路に一緒に入るみたいな、答えの出ない症例をいくつも抱える仕事であると。
 歌って踊ってそして泣くだけも現代の世の中に成り立つ仕事かよ、では、木蓮の両親は求められるネガティブ・ケイパビリティに耐えかねてサージャリムから逃げたのだろうか、しかし2人は健全であるように思ったけどつまりポジティブであるということなんだろう。
 「ぼく地球」の話は置いといて。
 共感を持って問題を抱える人の話を聞くのが医療行為とは知らなかったことである。
 個々に寄り添うとは答えの出ない問題を抱え続けることではある、とすると、いやいや、寄り添う方にも個はあろうよ、と思ってきたのはKの思想である。
 宗教とか国とかで人は集団で括られがちで、集団で評価されることも少なくない。主語が大きいって最近では言うやつだ。
 最近では男児の母親は男児を連れて女子トイレに入って来るな論争とか。
 主語が大きい人は、寛容さがないしないから共感もしない。でもあの国の人が嫌いだなあと例えば思っていたとして、その国の一人と仲良くなったらその人には寛容になれるし共感もできよう。ということは、対個人であれば寛容も共感も出るのである。主語が小さくなればなるほどネガティブ・ケイパビリティが発揮されると言えないか。
 まあ、Kたちはポジティブ・ケイパビリティで育ってきてるのでなかなか飲み込みづらい。子育てをしていて自然に飲み込めるようになったな、とKは思っている。よその子も実際に会って話し主語が○○くんになるだけで気持ち寛容になったりする。
 学校は不登校に寛容でなく、学校に行けているKたちも共感できないし、寛容でない。不登校についても本では言及されていて不登校の子の親はまさに答えの出ない事態に直面している。
 不登校の子に寛容になるのは我が子なら当然だが、数々の不登校の親垢に不快感を感じるのは、彼らが学校に行けている子どもに寛容でない点だ。
 我々は向こうから十把一絡げに見られているのだろう、全員健やかに楽しく学校に通っているという前提で語られているから不愉快なのかもしれない。
 同じようなことをギフテッド垢にも思っていて、フツーの知能である我々がどんな時でも自分のありのままでみんなと会話していると思い込んでいるきらいがないか。我々もあなた方と同様、自分を抑えたり矛盾を飲み込んだりしているのだがそこに共感はない。
 以前もネガティブ・ケイパビリティについて考えて書いたけど、あれは当たらずとも遠からずだったかも。やっぱり若い人より年寄りの方が世の中の解像度が高い。だから結果を急かしても仕方ないしいろんな人がいることを知っているからある程度は答えの出ない事態に耐えることができる。
 ティラノサウルスが壊れることを恐れても壊れないかもしれないし、壊れたらいつでも買えるから心配しなくてもいいことを大人は知っているということだ。それに2台目が壊れる前に恐竜を卒業することもある。
 世の中は答えの出ない事態に満ちているけど、答えがズバッと分かることが基礎にあるなとは思う。
 デジタルで01の世界ではあってもビット数が大きくなればグラフィックも精細になって写真と変わらない画像を描けたりするじゃない?そうすれば答えが出なんでもまあ、ちょっと置いといてみるかみたいな態度も取れる。歳を取るとネガティブ・ケイパビリティ的な考え方が育ってくるんじゃなかろうかと思うのは読後も変わらない。少なくとも若いうちはポジティブ・ケイパビリティで知識を詰め込むのもまた重要な過程じゃないか?
 不良が出ないなら早い方がいい、がさらにその土台にあるようにも思うんだよな。