Dr.スランプが好きだったこと

 アラレちゃんが流行ったときKは小1で台湾の高雄市に住んでいた。日本人が多い地域で日本人学校に通っていた。
 今のようにインターネットはおろかレンタルビデオもない時代で外国に於いて日本のメディアに触れる機会はほぼない。ファミコンのリリースもまだ先のことだ。外遊びすら治安が良くなく自由にできず、子どもの娯楽は読書しかない。
 そんな中で一時帰国した子が持ち帰ってきたDr.スランプの単行本は超おもしろく、本を持っていることがステータスだった。
 父が出張で日本へ戻り、お土産に何冊か持ち帰ってきた。そういうものに疎い父に代わり、母の甥がちょうどどストライク世代で買いに行ってくれたらしい。超人気の漫画だったから鬼滅の刃のように売り切れていて歯抜けで何冊かだったが、宝物になった。
 台湾から日本へはそれから少し後に帰国し小3で地元の小学校へ転入して、すでにアラレちゃんは共通言語で知っていればもう友だちだった。子どもたちの憧れはドラえもんの秘密道具と並び則巻博士の発明品だった。
 母がDr.スランプの映画を観に連れていってくれて、映画館は爆笑の渦だった。Dr.マシリトがカッコ良かった。
 その後ドラゴンボールが始まって今一つこれは自分向けの作品じゃないなと思い離れたが、弟がその頃やっと我が家に導入されたビデオデッキでアニメを録画して楽しみにしていたから、やはり鳥山先生の作品と共に大きくなった世代である。
 ドラゴンクエストもクロノトリガーもやりこんだ。
 宝物の単行本はもう手元になく、アラレちゃんのことはいつの間にかすっかり忘れていたが、鳥山先生の訃報を聞いてかつてものすごく好きだったことを思い出し、ギャグ漫画としてサイコーだった上に絵が素晴らしかったことを今さら知った。大人になってから見る鳥山先生の絵は素晴らしく完成度の高い芸術だった。
 ほこりっぽい日本人学校の教室でガキ大将的な男子としゃべるきっかけはおまえもアラレちゃん好きなの?おもしろいよなだったしたまにしか会えない祖母と新宿駅で別れたとき、おばあちゃん泣いていたなと寂しさを紛らわしてくれたのも棒に刺したウンチだったし忘れていてもKの人生の根っこにある。
 アラレちゃんは破天荒ではかせはお世話にいつも困っていたけど、自分が親になってから見るアラレちゃんと一緒にいるはかせはとても幸せそうに思う。
 また単行本を買おうと思う。
 ご冥福をお祈りします。