制服の話の続き

 制服を着て学校に行くのは何故かという問いを立てた不登校の人の話を先日した。
 Kの住んでいる界隈では公立高校の9割に制服がない。なので、いくら中学校で制服を強制しても3年たったら服装は自由だ。で、制服がないと言ってもほとんどの高校は指定の運動着があるのだけど、Lの高校についてはそれすらない。上履きだけは厳しく指定されているが。
 限界値まで服装の自由のある高校である。するとどのようなことが起きるか。
 授業中の風景など、校長がホームページに写真をアップしているのを見ると、後ろ姿で写真に写る多くの生徒たちの背中には高校の名前がプリントされている。部活のジャージを着て授業を受けているのだ。
 着替えがめんどくさいとか服がないとかこれがラクだとか、ズボラな理由はあるだろうけどなんで揃いの服を作り、それを着るのか、制服は何故あるのかの考察ができそうだ。
 その高校にはLが入学する年から体育用の高校名の入ったTシャツを作るようになった。それまでは指定のジャージはなく、保護者や生徒から要望があったので今年から作ったとお便りにはあった。購入は任意だが、新入生なのでKはそれを注文した。Lは学校名の入った服はこれしか持っていないが、体育のある日はこれを着ていく。
 部活ごとのおそろいのユニフォームは、大会などで同じような背格好の選手たちを学校ごとに区別するには必要だろう。文化祭では文化部も揃いのTシャツを着る。クラスマッチではクラスのTシャツを作った。どれもアイコンとしての役割だ。しかし、平時の校内で区別の必要がないのに着ているのは何故か。自分の所属している組織がアイデンティティの一つになっているからではないか。
 多分着たいから着ているのである。
 ジャージだし着ていてラクだからかもしれないけど、ラクを求めるだけならなんだっていいわけで、基本的に何を着ていてもいいんだし、なんならハロウィンの日には全員仮装してるクラスがあるとか。
 そんな自由も極みの学校で、年度初頭のクラス写真に同じウインドブレーカーを着た生徒が数人写っている。Lに聞くと、彼らは部活が同じなんだそうだ。クラス写真なのに、別に所属する組織があってそちらの制服を着て写るとは、ある程度その組織(部活)にアイデンティティを置いている証拠ではないかなどと考える。
 中学校の制服に話を戻すと、これを着ていればとりあえず学校の一員と認められる。その学校で学べる権利の可視化と言える。これさえ着ていれば学びの権利を保証される。学びの権利って、学校行くのがあまりに当たり前になっているから忘れているけど、実は結構尊い。
 で、なんの疑問も抱かず制服を着て学校へ行っているのは思考停止ではという考察だが。疑問を抱いて答えを見出した結果、それぞれ受け入れて着ているのだと思う。Lの高校の生徒は思考を一時も停止させない優秀な生徒たちが通うが、お揃いのTシャツを作り、好んで着用する。制服の楽しみを知っているからではないか。
 お揃いの服をみんなで着るのは楽しい。Kも保護者会でTシャツを作ったし、先生たちも保育園や学校でオリジナルのシャツを作って自慢にしている。吹奏楽やダンスの部活も、ステージ衣装を揃えたり楽しむ。
 人間は個性を大切にしたい生き物で、個人個人はもちろんだけど、集団として集まったときの個性も出したいんだなあとKは考えている。その個性が制服なんだろう。
 だもんで公立中学校には制服がある。市内に同じような学校がいくつもあるからだ。あの組織と私の組織は違うのである、と主張したい本能がある(逆に縁もゆかりもない人と服装がかぶって気まずいのはその本能の逆転ではないか?)。
 制服を拒否する根底には、オレは一匹狼だ、どこにも所属しないぜ的な孤高のオレ的思想があると思うのだけど、行かなくても公立中学校には所属しているのだし、戸籍はその自治体に登録されているのだし、所属する家族の庇護下で一日中ぬくぬくゲームをしているのだし、どこから見ても一匹狼たり得ない。その事実が分からなくてなんで制服着ないと教室には入れないんですか、誰かに迷惑かけていますか、誰得の決まりですか、という問いは学校へ行かないで済む理由をでっち上げるむしろ思考停止してる人の問いであるように思う。