勉強不足の重み

 自分の言いたいことを誰かに書いてもらう、みたいな取り組みをしている人びとがいるのだけど、両者の話し合いが何度重ねても同じことを議論するばかりで全然前進しない。
 言いたい方が書く方の解釈が違う、書く方の考えに当てはめられてしまうがそうじゃないと、話し合いの後必ず不満を述べていて、どうやら書く方の辞書には言いたい方の言いたいことを表現する言葉がないと言いたい様子だ。
 だったら言いたい方が自ら書けばいいのだが、話して絵を描くばかりで書かない。
 言いたい方は自分はあまり本を読んで来なかったと言う。持っている語彙が少ないんだろう。Kは聞きながらそれはこう言えばいいんじゃないのかなあなどと考えたりするが、言える立場ではないので黙っている。
 この両者の話し合いは1年以上平行線を辿っている。言いたい方の不満もずっと同じでつまり書く方に一向に伝わっていないということなんだが、まあ、書く方も言いたい方を軽んじている様子もある。
 言葉を知らないんだね、という軽んじだ。
 言葉を知らない人にも想いはあるから、話そうとしていることを真摯に聞くことは書く方に求められる。でもあまり聞く姿勢がなく言いたい方が○○だと言うとそれは□□だねとすぐさま自分の言葉に置き換える。
 ○○と□□は似ているけど厳密には違う言葉だ。その違和感を即座に正す能力が言いたい方に足りなくて、話し合いが終わった後に不満となって噴出する。違うそうじゃないと。
 で、書く方に待ったがかかる。
 Kは言いたい方の中の人なので、□□は違うなと同じように思っている。○○でも言いきれていないが□□よりはずっと言いたいことに近い。
 だが書く方は言いたい方を十分に理解していない上に語彙の無さを軽んじているから、現状言いきれていない○○を稚拙だと断じている。ようにKは思う。
 もう少しこちらを理解してもらった方がいいんじゃねと思う。だから言いたい方はまず自分で書いてみればいいのに。
 しゃべり言葉と書き言葉は、ほとんど同じようだけど、書くのは行きつ戻りつ、言葉を選ぶことができる。調べたり聞いたり、言葉の意味を考えながら選ぶことができる。
 言いたい方は文章を書かない。なにやら絵や図を描いて、薦められて頑張って読んだ新書か何かの引用で口で説明する。
 図解は分かりやすいけど、考えるということは言葉を使う、だから言葉で言えないならその図もさっぱり分からない。
 学力や学歴はその人の人柄や有能さに関係ないとは思っているが、ではその有無がどこに顕在化するのか。中学卒業時の成績がなんぼのものかと思っているが、自分で書けない、自分を表現する言葉を持たないというハンデを背負う。
 大学へ行こうと思わなければほとんどの人が一生懸命勉強するのは中学校までだろう。
 ほとんどの人が社会に出れば作文を書く必要もなくなるけど、たまに、ちょっとここに意見をと求められた時、書けない人が多くてぎょっとすることがある。
 例えばどうしてパートで働いているの?の答えに、勤務時間が保育園の預かり時間と合っていたからです、と書けない。保育園の時間にちょうどいいんだよね~と口では答えられても、文章に書けない。こういったことに驚く。そして、書けると結構ナメられない。こういったことにも驚く。
 弱視の子どもという事象を、本を読んで知って気に入ったディスレクシアという概念で解釈して診断が遅れた話で、言葉を知りすぎるのってどうなんだ?と以前考えたけど、語彙が足りなくて苦労することもあるなと。
 こうやって人に読ませる意図なく書いているnoteだって、この言葉じゃないな、もっとしっくりくる言葉があったような気がする、などと言葉を選んで書いている。
 書いたら自分でも自分の思っている通りに書けないことが分かる。自分で書けないのに人に分かって貰おう、その上書いて貰おうというのは軽んじられるのも無理はない。