2021年5月7日 死のリアリティ
友人の命日
5月3日は自殺した友人の命日だった。
だからと言って当日何かしようとか、何か書こうとかは思わなかったけれど、確かにそうだった。
彼女が消息を絶ってから一か月くらいの間は「どうにか引き留められたかもしれないのに」と思っていたけれど、結局はすぐに「死ぬより辛い生から解放されたのだから、これでよかったのだろう」と受け入れられた。
自分が死んだ時もそんな風に受け入れてもらえたら嬉しいと思う。
死のリアリティ
私の中で死のリアリティがあるのかないのか、自分でもわからない。
最近友人が「反出生主義に対して懐疑的なのは、なんというか「死」に対する解像度の甘さもある。」「反出生主義(人類絶滅論のほう)を掲げてる人の何人が動物の「死」と「生」を間近に感じたことがあるんだろうかって思っちゃう。」と述べていて、そういえば自分も死に実感がないような気がしてきた。
たぶん無意識のうちに虫や菌類は殺しているし、どこかで人の健康を犠牲にしないと成り立たないに違いないような、安くて質の良いサービスや商品だって平然と利用している……ということに自覚的なつもりではあるけれど、間接的で部分的な殺人の自覚と死のリアリティは別物なんじゃないか。
だとしたら、自分が自覚的に行っている間接的で部分的な殺人にもきちんとリアリティを感じて、感じた上で自覚的にそれをするか、或いはせめて自殺なりするか(一生フェアトレード商品だけで生きていくことは不可能だから)選択したいと思う。
……そう思って、(さすがに直接的に人を殺すのはよくないので)動物の屠殺体験について軽く検索したら結構なお値段がするようなので腰が引けてしまった。
自分の言いたかった間接的で部分的な殺人のニュアンスが伝わるブログ記事。ふつうこういう「自分が言いたかったことをうまく代弁してくれた」みたいな感覚はとても信頼できたものではないけれど、これより上手に言葉にできる気はしなかったので自分に対して降参です。
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