2022年5月7日 人文学とかインテリ左翼とか

 センキュー情況、ファッキュー人文学。そんな気分になっている。

人文学への悪口

 知識人とされるはずの人たちが、フロイトやその派生や、その派生の派生を本気で信じているらしいというのが、仮にも科学者崩れの自分にはとてもショックだった。そんな人たちがインテリであることも、インテリがそんな人たちになることも、そんな人たちが政治や社会に口出ししていることも……、いろんなことが失望や焦りに結びついたショックだ。
 それに、考えれば考えるほど、自分がなんとなく嫌悪や侮蔑を感じていた対象は、自分の感情的な話に留まらない酷さを持っていることに思い至ってしまう。

 科学みたいに「この証拠をもとに、その理論の妥当性を批判します!」が出来ない以上、人文学はどうしたって話の真偽は二の次で、界隈内での"政治"がうまい人(≒権力を用いた抑圧が得意な人)が覇権を取ってしまう……ように思えてならない。
 それにこれは「現実的にそうなってしまう(けどそうならないように矜持を持とう!)」ではなくて、基本となるルールからしてハラスメントのゲーム会場になってしまっていないか?

 巧妙に話を逸らしている(自覚していないのかも)けど、そもそも人文学における批判って、理想論にしたってハラスメント的(客観的な反証ではなく、意見による意見の否定になる。同じ界隈で生きている人間同士である以上、そこにはどうしても権力の関係が避けられない)にならざるを得ない環境があるのではないか?

 フロイトはやめましょう。ラカンもやめましょう。
("意味が分からないなら勉強不足なので自分で調べてください")
 あれは「俺はEM菌を信じてるけど」とか「地動説は間違ってる!」とかと同じで、それを口にした瞬間から「こいつの話は話半分に聞けばいいな」と判断されるサインです。そりゃあどんな陰謀論者の話だって真摯に聞くに越したことはないけれど、現実にはリソースの問題があるわけだから、そこまでしてもらう義理はないです。
 どうしても信じているなら、「科学的に否定されていることは知っているけど、でも自説のこの部分だけは正しいと思うから聞いてほしい」くらい前置きしないと、プロフィールに徒然草を引用してるおじさん未満の説得力しか持ちません。21世紀のリテラシーを身に着けてください

>インテリは緻密に積み上げられた演繹的な議論に弱い
 あれは悪意とか愚昧とかではなく、思考の脆弱性だと思っているから、「〇〇に弱い」という表現はとてもしっくり来ている。(意見の紹介というよりも、言葉選びの紹介みたいな側面がつよい)

"事実"を語ることについて

セクシュアル・ハラスメントやジェンダーに関する学生および教職員の意識は、総じてかなり鋭敏であり、前回調査と比較してもその度合いは高まっている。ただし、たとえば「さまざまな能力・適性において、男女差はあるものだ」という意見を過半数が肯定するなど、懸念が残る項目も見られる。

概要版のpdf10章より

 「現実はこうだと思う」「自分の目には現実はこうだと映っています」という認識を答えただけで懸念されるの、めちゃくちゃ失礼だし、考えているうちに思想が強すぎてウケるな~って思えてきた。
 本当に今更な気づきで恥ずかしいばかりなんだけど、命題の真か偽かを抜きにして政治的に正しいかどうかだけで非難を受ける現状は、旧ソ連を喩えに出しても許されるくらいの真っ赤なディストピアに突入している。

 以下では「女性は学力に劣る」を例に出す。
 まず第一として、実際にはそんな事実はないのに「女性は学力に劣る」と言った場合。これは実際に偏見だし非難を受けるのも妥当だと思う。
 ただしその非難は"女性蔑視"や"女性差別"ではなく"事実が見えていない"という非難であるべきだ。
 「女性は学力に劣っている。だから女性に〇〇をさせるべきでない」まで言って初めて差別だと非難してもいい。間違った前提を信じていたという事情は酌量されるべきだけれど、属性に基づいた不当な扱いが起こっていることには違いない。
 そして女性蔑視かどうかはその発言をした人の日頃の言動を鑑みて、日頃の言動に対して向けられる言葉ならアリだと思う。女性を学力で劣っていると認識しているし、女性を劣悪なポジションに置きたがるし、女性にセクハラをするし……そういう総合的な事柄を確認する前に、勝手に内心まで推測するのはご法度だ。

 第二に、実際に「女性は学力で劣って」いて、そのように発言した場合。これすらも炎上しかねないのが言論の自由が既にオワってると自分が感じる所以だ。
 もしそのことが本当なら、その原因の究明や、男女が対等になるように補正を加えるかどうかの議論をするべきだろう。少なくともこのポリコレ的な弾圧によって、議論されるべき問題が放置される可能性が生まれているわけだ(言論の自由が大嫌いなインテリでも、この観点には同意してもらえるのだろうか?)。

 第三に、実際に「女性は学力で劣っている」かどうかが不明瞭な場合。間違いなく現実にはこれが一番多いだろうし、たとえそうでない(真偽が自明である)ように思えたとしても、このケースを想定するのが最も丁寧だ。
 この場合は第一第二で俎上に挙げた論点だけでなく、言葉の定義や評価基準に関する議論も起こりうる(そしてだからこそ、大抵の"偏見"はこの枠に落ちてくるはずだ)。
 今回の例でいえば、たとえば『学力』とは何を指すのか(定期考査の成績? どこからどこまでの教科? 傾斜配点はどうなるのか?)や、『劣っている』の基準(平均値? 中央値? 成績優秀者の男女比?)が問い直される。
 そしておそらくは、ある基準で見れば「女性は学力で劣っている」ははっきりと真だし、ある基準で見ればはっきりと偽で、ある基準で見ればやはりどちらともいえない……そういった結論が出るだろう。(あたりまえだ)


 うろ覚えだが――言論の自由が大切だとされているのは、第一第二第三のそれぞれのケースで挙げたような全ての議論が生まれ、その中で新しい発見や意見、ことの真偽の調査などが行われるからじゃなかっただろうか。
 根本的に自分の認識が事実か"偏見"かは知りようがないのだから、自分にとっての現実を正直に表現したことで責められる謂れはないし、(自分にとっての)嘘を言わないと身の安全が保障されない場面が多々ある現状では、言論の自由ってもう既に死んでるな~~~~~!と思います。


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