2022年7月12日 カオスアニメをもっとわかりたい

 おねがいマイメロディを視聴する中で、いわゆる”カオスアニメ”についてもっとわかりたくなった。もし自分がそれらに縦横2次元の分布図を描くとして、ひとつの軸は条理←→不条理に違いないけど、もうひとつの軸は何になるんだろう?

 妖怪惑星クラリスの遺民が移り住んだエルサレムみたいなdiscordサーバーで話題にしてみると、さすがみな笑いに一家言あって、「ヘボットの笑いは形而下の出来事を軽視したシュールレアリズムなのか?」「ボーボボは脈絡がなさ過ぎて例外かもしれない」「作者の感性がおかしくてギャグになった回と、作者がギャグとして描いたギャグは客観的な判別がない……?」「パロディとか暴力をキレのあるユーモアとして捉えるから評価がたまに雑な人が多いから悲しい」などのかしこい会話がなされた。

 「人間って異常な情報でさえあれば面白がる面はあると思うんだけど、そもそもその異常な情報の生産のしかたが"まだ誰も言っていないことを言う・誰も言わないことを言う(新情報・タブーの侵犯)"と"文脈上、本来ならあり得ない事を言う(文脈からの落差・コロケーション破壊)"という、大別すれば物語の外・内の文脈への依存というのを考えているんだけど、どうしても混合したやつはある」
 「ギャグを正しく分類するためには、すべてのコンテンツの内輪に入る必要があるってのが難しいんだろうな」
 「"新情報・タブーの侵犯"と"文脈からの落差・コロケーション破壊"に加えて、"完全なる不条理"(ボーボボ)を加えて3つにするべきかも」
 「外部文脈への依存は面白さの笑いなのか? 外部文脈は、知ってるマイナー作品の話題が出て嬉しい!みたいな要素かもしれない」

「"ボーボボが特殊"という思い込みに引きずられている気もしてきた」


ボーボボvsパプリカ

 「漫画の形を取っているけど、実は混沌でも物語でもなんでもなくて、"連続的ではない、要素の羅列"みたいな感じするな ボーボボ」「そのジャンルでいくとボーボボとパプリカの境界線が混ざり始めそう」「パプリカを勢いよく歯切れよく朗読したらボーボボになる……? パプリカ、不思議と意味不明な笑いよりも不快感とか不気味さとかの方がこみあげてくるから不思議だ」

「"パプリカを改変してボーボボにしてみた"が出来たら何かしらのノーベル賞はもらえる」

「カオスといいつつも笑えるアイコンと不気味なアイコンを両方とも使い分けてるんじゃなかろうか? 日本人形とかって文脈にもよるけど基本笑えるアイコン側ではないみたいなそういう」「ボーボボの場合はアフロのマッチョが毛で戦うっていう根本がギャグのアイコンだから笑いになるのかな」「口調とか語彙なのかな」「明確なのはツッコミの有無か」「いや、たぶん5メガネとかはアフロのマッチョにも鼻毛にも依存してない気がする」「幼児向け絵本の語彙と口調でランダム生成したら、たぶんやっぱり幼児向け絵本を読んだときみたいな感情が想起されるかもしれない。あれ(パプリカ)はもはや詩歌なんだよな」

「あのシーン自体には依存してないけど、そういう文脈で5メガネを見たら"あぁ、これは笑って良い文脈だな"っていうクッションにはなる。パプリカに5メガネを組み込んだら同じでも笑えるのだろうか」

「パプリカの口調を「ですます」や「である!」から、「でちゅ~」「そうそう、それそれー」「って違うんかーい!」に変えて、語彙も「三角定規たちの肝臓」から「13パップゥ~リカ」とかに変える」


3つの視点

 この時点でボーボボとパプリカの差異について、3つの仮説が出ている。
ひとつはツッコミの有無。ひとつは語彙と口調の次元。ひとつは笑いと不気味さのアイコン

 は2つ目の語彙と口調がボーボボとパプリカを隔てていると考えていて、アンパンマンやドラえもんの口調と語彙でデタラメな文章を作ったら、実はなつかしさや安心感を感じたりするのかもしれないと思っている(未検証)。

「さっきあげたパプリカの教授のシーンとか、口調と語彙が学生運動みたいで怖いから怖いみたいな節もあると思うんだよな」


「パプリカの方は、文章の意味はわからないけど、このおっさんが何か誇大妄想的な気分になって大きな行動を起こそうとしていることは伝わってくるじゃん。……

でもボーボボはどんな気持ちで若者のスピリットを代弁してるの?」













ここから先は、答えを知るための読書記録(随時更新)

ユーモア解体新書

 ユーモアに関する小論文アンソロジー。ただしここで扱われているユーモアは、(明言されていないものの)"笑いを引き起こすもの"くらいのニュアンスで、縦横無尽な現代のカオス作品に含まれる広義のユーモアの理解にはあまり適していないと思った。
 全体的に、僕が思う悪い意味での哲学者らしさが出ているなぁと思った。地球に降り立ったことのない宇宙人が自分たちの理性だけで地球人の感性を推し量るような、どうしても分析的な傾向がある。これを書いているのは、実際に漫才やギャグ漫画で笑った経験が乏しい人たちなのかな?という印象を受けた。

面白かった部分の雑まとめ
・行動分析学の考え方
「ほしいオモチャがある・親が近くにいる(先行刺激)→ダダをこねる→オモチャを買ってもらえた(結果)」というオペラント条件づけ(良い結果が得られる行動は繰り返される!)に注目する。ダダをこねる子どもの心理を推し量ることなく、外部との影響の及ぼしあいに注目する。

・作品を見るときの枠組み
レッド・ツェペリンの『デジャ・メイク・ハー』は、レゲエの枠組みで見ると平凡だけど、レッド・ツェペリン作品という枠組みで見るとユーモラス。
 作品をどのような枠組み(カテゴリ)に収めるかの考え方が4つ紹介されていて、内訳は「(1)標準的な特徴を多く含み、反-標準的な特徴を少なく含むカテゴリ、(2)作品の面白さが最大になるカテゴリ、(3)作者が意図したカテゴリ、(4)社会で一般的にその作品が属するとされているカテゴリ」だ。

笑いの哲学(現在読書中)

 先の本とは打って変わって、本当にいろんなエンタメを楽しんできた人の書いた本だ。なにせ伊藤潤二や吉田戦車、ギャグマンガ日和、IPPONグランプリ、ダウンタウン、ナイツ、キングギドラ、Zeebraなどたくさんの具体例が引き合いに出されている。
 中でも伊藤潤二やキングギドラは漫才師やギャグマンガ家ではないのに言及されているところが魅力的・説得的で、「ギャグマンガ日和からツッコミを抜くと、伊藤潤二作品のような不気味さが生じる」とか「ナイツの言い間違い漫才とキングギドラのラップは、音韻と意味の両方を利用している点で似ている」などと言われると、こちらも考えが刺激されていろんなものを自分の頭で比較したくなる。

面白かった部分の雑まとめ
・著者はビュティ論者
「理解不能なものは恐ろしいが、ツッコミがいるとギャグ作品になる(大意)」、これはつまり先述のボーボボ・パプリカ論争におけるビュティ論者にとても近い。(ただしあくまでツッコミ不在の理解不能さに重きを置いた論調で、ツッコミの役割や重要性についてはメインではなかった)

・いじりの笑い
作者の言葉、三四郎のオールナイトニッポンの出演者・リスナーの言葉を通して、(とても大雑把に、あくまで話の流れを要約すると)「芸人同士の笑いは笑いが目的で、技術もある。一方で素人同士の笑いは技術がないうえに、しばしば笑いではなくマウント行為が目的である」。
 素人の笑いへのリテラシー欠如の視点だ。これはなるほどな~と思った。
 先に読んだ『ユーモア解体新書』では、笑いが主体でユーモアはそれを生み出すものという扱いだったので、実際にはジョークとして成立していなくても大勢が笑っていればそれはユーモアとして扱われていたけれど、リテラシー欠如の視点を取り入れてみると、例えばユーモアとして成立している本当のユーモアユーモアだと誤認して笑われている偽のユーモアを区別することも考えられるかもしれない。

・IPPONグランプリの「正解」について
>写真に示された微かな(つまり、多くの人がそこに注目してはいるのだが、そのことについて誰もはっきりとは意識できていないような)しるしにいち早く気づいて、それをネタに使い笑いを取ることが出来たら、その気づきは、その後に同じ写真をお題として答えなくてはならない他の芸人の読み取りを呪縛し(「隠し絵」が見る者の目を呪縛するように)、それ以外の思い付きを心に抱けなくさせてしまう。それほど「決定的」と周りの人に思わせてしまう一言がここで言われた「正解」の意味なのである。(正確な引用)
 この説明の「決定的」という部分がなるほど!度が高かった。

・笑いの缶詰(テレビ収録用の笑い声の音源)について
 笑いどころがわからない人にわかりやすい合図を送るだけでなく、視聴者を笑う義務から解放しているとも指摘されている。確かに、たとえば自分が疲れていて笑う気分じゃない時に、芸人が自分に向けて一生懸命ネタを披露しているのにテレビ内から笑い声が聞こえてこなかったら、自分が笑うことを強要されているみたいでしんどく感じると思う。

わたしたちはなぜ笑うのか?

 60ページくらいで挫折。文学史は話が具体的になればなるほど興味がなくなる……。「古代はこう、中世はこう、ルネサンスはこう」くらいまで要約されていたら面白いけど、この時代のこの作品のあらすじは…となるとどうにも。

「運河/カナリス/と足秤」という名前の料理が実際には「野兎/カナリス/と上靴」である(古代ギリシャの『メッペニア』と呼ばれるジャンルの風刺作品のギャグ)
↑現代語で説明するとなおさら、いわゆるシュールギャグすぎる

日本語 笑いの技法辞典

 第1章展開、第2章間接、第3章転換、第4章多重、第5章拡大、第6章逸脱、第7章摩擦、第8小人物、第9章対人第10章失態、第11章妙想、第12章機微。全部で250項目以上にわたって、笑いの技法が列挙されている。

 たとえば「わかるでしょう? わかりますよね? きっとわかるよ。わかるに違いない。わかれ」のように徐々に語気を強めて反復すると面白い、だからこれは漸層法と呼ぶ。逆に「絶対に浮気はしない。おそらくしない。たぶん、きっと」のように語気を弱めても面白い、だからこれは漸降法
 謎かけのように奇妙な情報を先に出すと面白いから、これは奇先法。「婚約者とお食事をしてから、お見合いをします」だと順序が逆だから面白い。だからこれは手順前後だ。

 ……こんな風に小さな面白みを丁寧に見つけてリストに加えては、結構ちゃんとした引用を具体的に交えて紹介している。
 ただその項目の多さと説明の充実がゆえにかえって読破が困難になっていて、非常に報われない本だ。全部で600ページ以上あります。辞典なので。

日本語と笑い

 面白い日本語の紹介の本だった……。
 ものごとがご破算になるときの「おじゃん」、酒好きを意味する「左利き」の語源を紹介してくれる本で、話自体はけっこう面白いものの、今自分が求めている本ではなさそうだ。

 それにしても「左利き」なんて言葉は初耳だ。鉱山町の労働者が右手に槌を左手に鑿を持っていたことから、鑿と飲みをかけ「左利き」と言うようになったらしい。昭和51年(1976年)発行。

「笑い」の考察

 まずもって1979年発行(翻訳モノなので、たぶん原典はさらに古い)なので、情報やセンスが古い。その上、章立ての粒度もバラバラでn=1の話から始まっていたので読み進める気持ちになれなかった。

「笑い」はどこから来るのか?

 題材が漫才なだけで、いわゆるそういう文学評論の本っぽい。Amazonレビューから否定的な感想を引用するけど、実際この人の言っていることもよくわかるな~って感じ。

一部論考なんですが、自分の主張を展開するためにお笑いを題材にしてる感じ、なんか社説みたいな展開の仕方で気分悪かったです。
恋愛ネタを調べ上げた巨大な表とかもあって心底ギョッとしました。
唯一、個と公に見事に線を引いたエッセイがあって、それはよかった。
それを読んだ後だと、ほかの論者らが公の番人というか、この人たちがお笑いをつまらなくさせてるのに加担してるのだなと思えます。
本読んでもどこから笑いが来るのかはわかりません。
お笑い好き、特にAマッソ、金属好きは読まないほうがいいです。

 僕自身はあまり漫才に詳しくないので解像度の低い感想しか残らなかったけど、漫才の成功・失敗は観客の笑いの大きさによって可視化されるから、ただ高度なこと・テクニカルなことをするだけではなく、それがきちんと面白くなければ名作として残らない点が漫才自体の素敵な点だと思った。
 「この映画はポリコレ的に正しかったなぁ」とか「このゲームはメタ演出があったなぁ(メタ演出があったから、メタ演出があったんだよ!)」みたいな、作品全体の魅力に寄与しているかどうかを無視して作品の要素を語る感想・評論に流されづらいのは、ひょっとすると芸術の中でも特殊な部類なのかもしれない。

 もうちょっと具体的な感想を言うと、漫才師は「ボケにツッコミを入れる」という基本構造があるからこそそれを無視することで笑いを取る(たとえば「いや、ツッコミ入れへんのかい!」みたいな)ことに意欲的――というか、それが面白い限り開拓されるような多様性があるんだと思う――なんだなと思った。

笑いを科学する

 論文のアンソロジー。文化史の話もあれば脳科学の話もあり、もちろん社会学や心理学の話もある。

面白かった話
・神道や仏教では笑いは肯定的に扱われるが、キリスト教では否定的に扱われる(笑う仏像はあるのに笑うマリア像はない)。
・能や狂言の話(自分は文化史に関心がないからほとんど理解しようと思えなかったけど、興味がある人のために書き残しておきたい

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