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『高校時代の私』について


こんにちは!今回は私の高校生時代のお話をします。


先に申し上げますが、高校生時代は本当にテニスと勉強にほとんどの時間を費やしました。



もちろんテニス・勉強だけではなく、数々の行事の中で人との輪を広げていけたことが一番の宝物だと感じていますが、テニスと勉強が生活そのものでした。


テニス漬けということで、どのくらいの時間をテニスに費やしたのか計算してみたいですが、そのような記録は何もないので、記憶を頼りに書いていきます。



結構長くなります。笑


1.県内有数進学校への進学


私は宮崎県の中高一貫校に進学したので、高校受験はなく、持ち上がりで高校に入りました。


偶然中学受験で合格できたので地元を飛び出して、いきなりハイレベルな競争の中に飛び込むことになりました。


中学の時から個性あふれる友人たちに囲まれ、自分の殻が破れていたので、自然と高校でもSNSでも、交友関係を広めようとたくさんの人に絡んでいた気がします。


当時の夢は確か、「プロテニスプレイヤーになって引退後、総理大臣になって日本を変える。」


ビッグマウスで驚きますね。😇

夢が大きいのは良いことです。


今でもそう思います。


さて、ここから勉強とテニスでほとんどの時間を費やす生活が始まります。




2.基本的な生活の流れ


高校は都会ではわりと自由な校風のところが多く、帰る時間も早いところが多いと思います。しかし、母校は朝7時半から課外があり、その後7時間授業があり、3年生の一時期は夕方にも課外がありました。(最大9時間授業=50分×9コマ)



放課後は部活動の時間ですが、活動時間はおおよそ1時間と少し。中学生と使用時間を半分こにしていた+コートが男女で3面しかなかったので、満足に練習できる状況ではありませんでした。(球出しなどでよく回していました。)


私は中学からテニスクラブに所属していたので、部活動後に自転車で20分ほどのところにあるコートに行き22時まで練習して電動自転車で家まで帰る、というような生活をしていました。


電動自転車生活は1年生の秋くらいからでした。


それまでは電車と自転車でしたね。



23時過ぎに家に帰ってご飯を食べたら残りの課題をやって寝る。そして5時台に起きる。


そんな生活でした。今思えば毎日眠いはずなのに起こしてくれた母には感謝を伝えたいです。(今更ですが。笑)



3.テニスについて


毎日テニスをやらなければ気が済まず、テスト期間もできるだけやっていました。


テニス自体が楽しいということもありましたが、こんだけやってるのにどうして結果が出ないのだろうという焦りもあったと思います。


もっとやらないと、という自分と周りのプレッシャーを感じていたのも。




その当時は<県内で優勝>や<インターハイに出る>などの目標を掲げており、学校の部活動では所謂“意識高い”部員として活動していました。


現在、猛猛猛反省していることは(以前も書きましたが)、やる気のない部員のことを下に見ていたことです。

下に見ていたというのは、馬鹿にしていたというわけではなく、自分の方が偉い、と勘違いした行動をしていたということです。



その時の部員の皆さんには申し訳ない気持ちしかありません。


自分の価値観を押し付けるというのはそういうことだと、大学に入って学びました。



これは後にキャプテンを務めることになった時に大きな影響を与えることになります。


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4.勉強を疎かにはできない


テニス漬けとはいえ、勉強もやらなければ置いていかれる、それは避けようと勉強もしていました。



毎日出される課題の量は、これをやっとけば勝手に力が身に付くくらいの量でした。


つまり、それ以上の勉強はあまり必要なかったので、僕はひとまず課題をやりきるように日々取り組んでいました。



放課後はテニスの時間なので、部活前までにできるだけ課題を終わらせ、(授業中も内職していた気が、、、)家ではほとんど勉強をしない。


中学生の部活動の時間が勝負でした。笑


授業も質の高いものが多かったので、授業でできるだけ集中して理解しておくように努めました。(それでも内容が濃いので復習は必須。テスト前は勉強の時間は増やしていました。)


文武両道という言葉がありますが、私はそれに見合う人になりたかったのです。(溢れんばかりの承認欲求が。。。笑)



今となっては何の自慢にもなりませんが、2年生のとき、3教科のベネッセの全国模試で校内9位、県内12位という成績を出したのが最高記録です。(校内レベル高し。😇)




5.電動自転車を乗り回す日々


電動自転車を手に入れたのは1年の秋だったと思います。


通常私の地域の生徒は電車と自転車で通学していました。


私も最初はその普通の通学方法でした。



しかし

・宮崎県は電車の本数が少ないこと(1時間に1、2本)
・電車&自転車だと遠回りで、電動自転車で直接行く時間と変わらないこと
・時間に縛られず自由に移動できること
・電車賃がかからないこと(電動自転車代はかなりかかりましたが、、、)


などを踏まえて、全て電動自転車で移動する生活に変えました。


学校までは片道約14キロ、テニスクラブの主な拠点は家から約16キロの場所にありました。



毎日一人で山道を往復2時間漕ぐ生活。今となっては、よく頑張っていたなという感じです。(高校生は教科書などの荷物が多いためロードバイクなどは不便。バイク通学は最寄駅が非常に近いということもあり認められない校則でした。)


遊びに行くのも1時間くらい漕いでラウンドワンに行きましたし、テニスをするためにあっちこっち移動してまさに私の“車”でした。


愛車です↓

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一番最初のnoteでも少し書いたと思いますので、そちらもご覧下さい。




6.土日はどうしていたの?


平日は勉強とテニスで他の時間を作れそうにありませんでしたが、では土日はどうだったのでしょうか。


単刀直入にいいますと、基本的にはテニスと勉強しかしていません。笑(あとはSNSくらいでしょうか。)


遊んだ記憶はあまりなく、行くとしてもカラオケ、ラウンドワンとかそのくらい?

他にも公園で遊んだり、ラーメンを食べにいったり、という思い出はありますが。笑


どなたか遊んだ記憶があれば教えて下さい。😂


宮崎県は緑豊かで観光スポットも豊富です。



でも僕は“宮崎県といえば”という観光地にほとんど行ったことがありません。



家族で出かけることもほとんどなく、テニスのコミュニティが最も身近で一緒に過ごした時間が長かったです。



半日はテニスクラブでテニスをして、追加で部活動の仲間とテニスをして、場所を移動してまたテニスをして、、、という土日の使い方でした。


もっと他の時間に使っても良かったのかな、と思うことはありますが、決して無駄ではなかったでしょう。


こうして今があるのですから。



7.それでも学校生活は楽しい


ここまで書いてきて、勉強とテニスしか取り柄がないじゃないか、という批判をいただきそうですが、学校生活は非常に充実していたと思います。


毎日の昼食はどこかで誰かと。


昼休みは体育館でバスケをしたり、テニスもできたので、夏には制服で汗だくになりながら遊んでいました。(いや〜書きながら懐かしくて感動しています!)



昼休みの後の掃除の時間は、体育委員会の指定場所は体育館か、トレーニング場か、武道場。


体育館の時はバスケのシュート練習をボールを落とさないように(先生にばれないように)やったり、トレーニング場で普通にトレーンングしたり。。。今となっては懐かしい思い出です。(意外と悪い生徒やん笑)


そんなこんなで楽しい高校生活の中で特に楽しかったのが、『朝陽祭』



8.『朝陽祭』の思い出


これはそのまま『ちょうようさい』と読みますが、母校の文化祭と体育祭を合わせたイベントのことです!


毎年中高生がいろんなイベントを通じて仲良くなるきっかけにもなるので、新しい出会いが大好きな私にとっても貴重なイベントでした。



文化祭では毎年M'sステージという披露会があり、私は必ず歌かダンスで出場していました。笑(3年生のときのダンスはYouTubeにも上がっているのでぜひ。)



五代夏子⇩⇩⇩

https://youtu.be/8QLyXgmlf0A


会場はこんな感じで、臨場感ありますね!↓

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高2までは歌でしたね。自分そんなに上手いわけではないのによく出場する勇気があったな。。。(今ならまだ“マシ”です笑)


余談ですが、今絶賛ギター練習中で、引き語りを披露できるように、と企んでいます。お楽しみに!



話は戻って、文化祭も非常に楽しかったですが、体育祭の楽しさははるかにそれを凌ぐ、、、



3年生の体育祭で私は赤団の副団長を務めました。

団長ではなく、副団長だった理由としては、テニスの時間を確保したくて団長は荷が重かったことが一つの要因です。


でも副団長でも印象深く楽しい記憶しかありません。


リーダーといって応援で団を引っ張る役割を果たすメンバーで毎日のように集い、テントの見栄えを良くするための装飾品を作ったり、応援の練習をしたり、たわいもない話をしたり、、、


人生最後の体育祭でしたので、全力で楽しんで頑張ろうと意気込んでいました。


その期間だけは勉強が疎かになっていたかもしれません。(←記憶にない。)



ここには書ききれないくらいの思い出が詰まっていますが、言語化するのが難しいので、あの時の団長副団長のメンバーでまた集まりたいな、と思ったということを書き留めておきます。


副団長、背負う団Tの名前は、「俺、修造。」↓

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そういえば、修造さんキャラでしたね、、、😂



9.カナダへの修学旅行


2年の冬、カナダのバンクーバー方面でのホームステイを経験しました。


学校交流会もあり、カナダの学生と仲良く話をした記憶があります。


僕のここでの笑い話は、めっちゃモテた、ということです。(ここは笑うところです。笑)


要因は分かっているのですが、恥ずかしいのでここでは省略。



しばらくの期間、「国際結婚もありだな〜」とか考えていました。(よく考えてみると別に考えることでもない。)


当時の担任にもかなりいじられました。笑(英語の先生)


なんだか書いていて恥ずかしいのでホームステイのお話を。



僕がお世話になった家は毎年受け入れてくださっているところで、慣れていたので親しみやすくよかったです。


小雨の日には(カナダの冬なのに雪じゃない)ハイキングに連れて行ってくださり、地元チームのアイスホッケーの試合に連れて行ってくださり、新鮮で印象深い記憶が残っています。


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アイスホッケーは想像以上に激しくぶつかり合うスポーツで音が凄まじかったです!

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それにしても観客の多さにびっくりしました。


スタジアムの広さに感動しました。



カナダでは他にも行った場所はあると思いますが、印象強く残っているのはこのくらい。



さて、日本に帰りましょう。✈️




10.勉強もテニスも結局中途半端に



勉強でここまで!という具体的な目標はありませんでしたが、テニスの方は正直もっと上にいきたかったです。


県内でもベスト8止まり。九州大会にすらほとんど出場できませんでした。



正しい努力ができていなかったと言われればそれまでですが、できないことはないというのは多分迷信です。(でも自分が本気で取り組んできたとは言い難いのが正直なところです。)


いろんな偶然や繋がりや才能や努力や経済やいろんな要素が組み合わさって一つの成功が生まれると思うので。


それはテニスを長い間続けてきたからこそ学んだことです。


逆に全員が世界一目指せるなら(手の届く存在なら)世界一の価値は下がってしまいますよね。


全員が努力して必ず結果が出るとしたら世の中の大半の悩みは消えると思います。


でも高い目標を目指し続けられる人は本当にすごいと思います。


そういう方々は、これまでも、これからも応援しています。




一個上の3年生が引退してから私が主将で部活を仕切ることになりましたが、最初の方に書いたことを覚えているでしょうか?


やる気のある人の練習を優先して他の人はあまり打てないような状況をつくっていました。


なぜ意識が高いからといってコートを占領する権利があるのか。(ありません。)


必死でみんなの意識を高めようとしていましたが、いつしかそれは諦めていました。


人の価値観は無理やり変えるものではない、と学びました。


葛藤は私にもありましたが、みんなあったと思います。


コートが倍以上あればおそらく何も文句はなかったのかもしれませんが。笑



顧問がすべて私に任せていたので、偶然ですが、そのような失敗の場を経験できたことは今に生きています。


結果は団体戦ベスト4、個人戦ベスト8で引退を迎えて、、、でも試合のあの緊迫感は今でも覚えています。


懐かしい。


団体戦で賞状は頂きました。↓

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テニスはそんなこんなでもっと磨きたいと大学でも続けてきましたが、ついにコロナの影響で学生テニスの引退を迎えそうです。(まだ希望だけは持っても良いでしょうか?)



テニスは一生やり続けると思うのでテニス人生が終わるわけではありませんが、時が経つのは早いですね。笑



勉強の方はこれといった目標がないおかげで中途半端に頑張っていましたが、筑波大学に入れただけある程度は頑張ったと言えるでしょうか。


どちらにせよ、テニスも勉強もお互いを言い訳にして中途半端な自分を認めようとしていたかもしれません。



11.大学受験期


高校3年生の体育祭が9月にあり、そこからは本格的に受験期に突入しました。


私はスポーツを学べる大学に入りたかったので、最初は早稲田大学スポーツ科学部か、筑波大学体育専門学群か、の二択で迷っていました。


決め手は国立が良い、というところでしたが、成績の方はゆとりがあったので、ぼちぼち頑張らねば、というところからスタートでした。


一応第二志望として大阪教育大学の保健体育も考えていたことを記しておきましょう。


筑波大学に合格できていなかったら今頃何をしていたのかとても気になります。

それから早稲田大学に入っていたら、というのも考えてみると面白いです。


部活動に入ったら本当に意味がわからないくらいのハイレベルな環境に飲み込まれるので、、、どうしていたんだろう。笑


大阪の大学なら、エセ大阪弁を頑張って話してそう。。。🤣



スポーツ系の大学を目指していたので、テニスもずっと続けていましたし、後輩たちの部活に混ぜてもらったりクラブの方でテニスをしたり、と相変わらずの生活が続きました。



テニスをしない時期はセンター試験前の1ヶ月くらいだったでしょうか。


それでも週一くらいではやっていた記憶がありますが、その時期は世界史の成績に危機感を感じて放課後も21時くらいまで職員室の前で勉強する日々。



あのときが一番勉強しました。


多い日には1日13時間とか。


センター試験でコケるわけにはいかなかったので徹底してセンター試験対策をしました。


結果として想定以上の点数を取ることができたので、そこからは余裕をもって2次試験に向けてテニス、バドミントン、保健に費やすことができました。



日中は登校義務があったので学校の体育館でバドミントンやバスケなどスポーツを行い、時々教室に戻っては保健の教科書を読む。放課後はテニス漬け。



バドミントンに関しては、バド部の後輩にお願いして、部活動に参加させてもらったこともあります。


後輩に県内で入賞レベルの子がいたので、、、笑


今でも覚えているのは当時の女子主将に19-21で負けたことですね。


またいつかやろうといってからまだ実現していません。


次試合するのが楽しみです!



バドは今でも大学の友人とやることがあるので、一生続けたい種目の一つです。





そろそろ終わりが近づいています。




12.高校生活を振り返って


ここまで読んできてどうでしょうか。


私について少しでも知って頂けたら、と思い書きました。


思い出しながら書いていて悔しいのが、曖昧な記憶しか残っていない、ということ。


不思議と人間はどうでも良いことは忘れるようにできているので、あんなこともあったな〜と思い出せるものから全く記憶にないことまであるというのが不思議です。

忘れちゃってることがなんなのかも分からないのが不思議。


そもそも高校3年間のできごとがこのnoteに収まるわけがありませんよね。




誰かの記憶と掛け合わせればもっと思い出すでしょうが、それはまた地元の友人と会うときに飲みながらでも。




また思い出したことがあれば、ひっそりと書き足そうと思います。



最後までありがとうございました。