俳句に学ぶ 創作方法論:「古来×旬」のコラボをつくる

[※2022年5月23日 改訂版(全体的にトリミングしました)]
滑稽味のある俳諧の芸術性を高めて俳句の源流になったと評される松尾芭蕉まつおばしょう。彼がその理念として掲げた概念である「不易流行ふえきりゅうこう」をご存じのかたは多いかもしれませんが、これは弟子によって結晶化された言葉であり、芭蕉自身のものとしては残っていないようです。そこで今日は彼自身の句を検討することによって、それが「不易 × 流行」つまり
「古来からの(悠久の)ものごと × イマ旬のもの」
というコラボを意味する面もあるのでは?と考えたお話です。

まず注釈。上記は“俳句を因数分解した”のではなくて、ある一つの方向からレントゲン写真を撮ったら、たまたまそういう骨格??がほの見えた、という程度のお話です。別の角度から俳句を見れば違う形が写るかもしれませんし、もちろんレントゲンに写らないものも多々あることは承知の上。つまり、たいへん恣意的かつ大幅な捨象しゃしょうの結果として抽出された私見です。

では改めて、「不易」とはざっくり変わらないもの、「流行」とは今が盛りの移り行くもの、という感じだと思いますが、「不易流行」で辞書を引くと「両者は根底では同じうんぬん」みたいな説明も書いてあり、そりゃそうだろうがしかしよくわからないと言えばわからない、と思いました。
そこでその真意を探るべく、むしろ芭蕉自身の言葉ともいえる有名な句をいくつか例にとって、不易流行という理念がどのように表れているのか探ってみました。
その結果が冒頭の結論であり、きわめて表面的なテクニックとしては「古来からのもの × イマ旬のもの」の組み合わせで作った句が多々あるみたいだ、との(再)発見。あくまで表面からの観察事実として。

具体例で見てみましょう。

  • 古池やかわず飛びこむ水のおと (松尾芭蕉)
    「古池」が古来からのもの、「蛙」(春の季語)がそのときの旬。

  • 五月雨さみだれをあつめて早し最上川もがみがわ (松尾芭蕉)
    「最上川」が古来からのもの、「五月雨」(夏の最中の季語)が旬。

  • 夏草やつわものどもが夢の跡 (松尾芭蕉)
    関ケ原に横たわる「歴史」が古来からのもので、「夏草」(夏の季語)が旬。

  • しずかさや岩にしみ入る蝉の声 (松尾芭蕉)
    「岩」が古来からのもの、「蝉」(晩夏)が旬。

  • 荒海や佐渡によこたふとう天の河 (松尾芭蕉)
    夜空の「天の河」が古来かつそのときの旬(初秋)、そしてたぶん暗闇に響き渡る「荒海」の音が眼前のイマココ。

不正確を承知でそれぞれを端的にまとめると、ざっくり「古池×」「川×五月雨」「歴史×夏草」「岩×」「天の川×荒海」が骨組みだとも言えます。
俳句は、五七五という形式に加えて、少なくとも季語を含まなければならないというしばりがありますので、旬を入れ込もうとするとおよそ季語ということになるのでしょうが、「天の河」のように古来かつ季語という例もあるようです。


■それでは最後に、理論を実践的に検証すべく一二句練習をしてみました(ただし必ずしも俳句ではない、としておきます):

崖に雨 あじさいの葉の つやえり (Kaguemori)

季語は「あじさい」(夏の最中)で、「崖」が古来からのもの。今はまだあじさいは“はしり”でしょうか、それとももう“さかり”でしょうか。先日のことですが、とある暗い色の崖に生えるアジサイの葉が、にわか雨に濡れ、匂い立つほどの鮮やかな青となってめちゃ目に刺さってきた、という句。凡作か…。

***

もちろん芭蕉の句には、「旬 × 古来」以外の深みもいろいろと織り込まれているはずだとは思いますけれど、少なくとも句の着想には「旬 × 古来」があることが多そうに思われました。ちなみにこれを「新 × 旧来」と解釈すると、西洋芸術の本質の一部?である「新規性 × 過去の名作への参照」とも呼応してきそうです※引用でなく参照・参考というのがちょっと難易度の高いところ。
というわけで、もし「不易流行」が俳諧の芸術性を高めるカギだったと言うのならば、それを眼前の創作に活かすことも可能では?と考えたところから出発した今日の話――なのですが、おそらく昔から幾度となく指摘されていることだとは思います。たとえば、
寺田寅彦『俳諧の本質的概論』(1932年)|青空文庫 など。 ←映画手法への言及もありました。
「旬 × 古来」「変わるもの × 変わらないもの」の妙については、今後ひっそり検証していくつもりです。


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