設計者としての芸術家 vs. 作品のアウラ、を乗り越える

芸術家・草間彌生くさまやよいさんは、ベネチア・ビエンナーレに出品した『ナルシスの庭』(1966年)に関して、次のように述べていました。

当時、オランダの美術記者の質問に答え、草間はこう語っている。[中略]「ミラーボールは工場が作ったもので、あなたはミラーボールを磨いてすらいないが?」との質問に、「私は、建築家のように、事前に作品の計画を立てる。そして工場が私のデザインを実行する。今、アーティストは、純粋に精神的なレベルで仕事をすることが可能になったのです」

「芸術新潮」2017年4月号より

きらめく知性がまぶしい切り返しで、アーティストの本質はコンセプターかつデザイナーであるということを明らかにした?主張だと思います:

芸術家 ≒ コンセプター × デザイナー
(芸術家 ⊂ コンセプター ∩ デザイナー)

このようにとらえると、伝統的な画家の仕事も、「画題や画材を選ぶ」のがコンセプター的な側面、「それを受けて実際に絵の具を置いて画面を作る/画面を設計する」のはデザイナー的な側面だ、と理解し直せますね。

音楽で言えば、ボカロ(VOCALOID、2004年ごろ~)などの合成音声とDTMソフトも、ある意味で、歌もののポップミュージックにおいて上記のような“建築家”(設計者)の存在を可能ならしめたと言えるかもしれません。じっさい、演奏も歌唱もせず、合成音声とDTMソフトのみで完パケの例が(たぶん)ありますよね。これはおそらく大変エポックメイキングなことであり、「ボカロ前」「ボカロ後」と言ってもよいでしょう。ちょっとずれるかもわかりませんが、最近こういう記事もありました:
「VOCALOID」がグッドデザイン賞受賞 「新しい音楽文化の形成に寄与」|ITmedia NEWS(2022年10月7日付)

一方、偶然性の音楽(chance music / random composition)というものもあり、これらは作品の中に(統御されたやり方で)偶発性を採り入れようとする制作活動だそうです。やはり、「こういう方法で偶然性を採り入れよう」と発案するのがコンセプター的側面で、「(統御されたやり方でもって)それを実現する」のがデザイナー的な側面だととらえることはできます。

では、人工知能(AI)利用の楽曲制作はどうでしょうか。またかという感じかもしれませんが、すでにもう、キーワードから歌詞を生成するAIがあり、歌詞から/もしくはランダムにサウンドを生成するAIがあり、逆にメロディーの音数に合わせて作詞してくれるAIも出てきているようです。このようにして制作された音楽(?)は、いったい何なのでしょうか。「環境音」とひとくくりにすればそれまでですが、「はじめにキーワードをいくつか列挙し、あとはAIの偶然にまかせる」ことは、はたして作詞作曲なのでしょうか? それともプロデュース??

***

まだ考えがまとまっていないので結論は無しですが、少しだけ考察。

AIのアンチテーゼとなるような制作方法はいろいろ考えられるでしょう。ただもし、それすら真似するAI曲が出てきたとき、どう受け止められるのかは不明です。

そこにおいて“アウラ”(aura=唯一のものがかもしだし人に与える感覚)というものがあらためて問題になってきそうな予感はあります…。
 参考: アウラ | 現代美術用語辞典ver.2.0
たとえば、オートマティスム(=制作者の無意識に依拠した創造活動)の尊重は、アウラを重視する立場と親和性が高いのかもしれません:
 参考: オートマティスム/オートマティズム | 現代美術用語辞典ver.2.0
つまり「降りてきた、これが今この瞬間の自分!!」というタイプの楽曲制作だと思います。そのような曲から受けとれるものは、ひょっとすると(複製可能なwavファイルや配信などの)作品データのアウラというよりは、むしろアーティストのアウラと言うべきなのかもしれません。濃厚な生の気配が生み出す価値。あるいは、この人が作ったというキャプション(メタ情報)の価値。など?

はてさて、どうなることか。


※2022年10月28日:考察部を一部改

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