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第4回 リーダーに求められるもの

内海知秀氏(アテネ・リオ五輪女子日本代表ヘッドコーチ)

 今回は、アテネとリオ、2度の五輪で女子日本代表のHCを務めた内海氏と鮫島氏が対談した。鮫島氏によれば、かつて日本代表だった内海氏は「憧れのプレーヤー」だったという。日本の指導者で、2度の五輪を指揮したのは今のところ内海氏がただ1人である。思い切った決断が功を奏してつかんだアテネの切符、経験と実績を積み重ね、それまで続けた強化の成果が出たリオの8強入り、そして東京の銀メダル…日本のバスケット界の歴史的な出来事に大きく関わってきた内海氏と、リーダーに求められるものについて語り合った。

聞き手
鮫島俊秀氏(鹿児島県バスケットボール協会)
コーディネーター
政純一郎(スポーツかごしま新聞社代表)

サン・クロレラは鹿児島のバスケットボールを応援しています!

「忘れられない戦い」

鮫島 私にとって現役の内海選手は憧れの選手でガードでありながらインサイドの強さが光っていました。きょうの対談を個人的に楽しみにしていました。本日のテーマは「これからの若い指導者に残していきたいこと」です。ではまず、ヘッドコーチ(HC)として忘れられない戦いを挙げていただけますか?

内海 たくさんある中で、あえて挙げるとすれば、仙台であったアテネ五輪(2004年)の最終予選ですね。まだWリーグの監督になって3、4年目の頃で、本当に自分がHCをやって本当にいいのか、迷いのあった頃です。当時は中国、韓国が強くて前年度の世界選手権に両国がベスト8に入ったことで五輪のアジア枠が3つありました。
 アジアの大会で3位に入れば五輪にいける。中国、韓国が飛び抜けていて、3番手を日本と台湾が争っていると目されていました。ところが予選リーグでは台湾に1ゴール差、韓国には30点差以上つけられて負けました。中国にも当然負けてしまって、選手、スタッフも含めて「やはり勝てないのか?」という思いに支配されていました。
 しかしそこでHCの私もそう思ってしまえば、そのまま流されてしまうので、それだけはやめようと考えていました。その上で決勝に残るにはどうすればいいかだけを必死で考えました。周りから見れば「3位狙い」が妥当と思われていた中で、あえてその一つ上の決勝ということにこだわりました。
 そんな中で迎えた決勝リーグの韓国戦。勝てば決勝に上がれるという試合で司令塔の川上選手が熱を出してしまった。6番目のポイントガードとして使っていた薮内選手を起用しました。ベテランの大山、濱口選手らが中心のチームでしたが、戦っていく中で若手を使っていったら、どんどん伸びていきました。韓国戦は終盤になるにつれて競り合いになり、延長でも決着がつかず、再延長までもつれました。
 再延長の時間帯に活躍していたのでこれまでの中心だったベテランではなく、若手選手たちが頑張り、最後は韓国の体力が尽きて勝った試合でした。

鮫島 それは日本のバスケット史上に残る戦いですよね!

内海 もともと別の場所で予定されていた大会でしたが、当時アジアでSARSが流行っていて、急きょ仙台で実施された大会でした。

鮫島 地の利もあったわけですね。

内海 SARSがないものとしてチームを作ってきました。それが延びて遅れてしまった。そこにむけての調整も難しかった中、自分もHCになって間もない頃で、選手たちが本当によく頑張ってくれました。

鮫島 それはチームの中でどんどん「化学変化」が起こって、成長し、突き抜けていったということでしょうか?

内海 そうですね。仙台の時は試合を重ねるごとに選手たちが上手になっていました。あの時だけどーんと強かった。それまで2、30点つけられていた相手に勝ったわけですから。

鮫島 徐々に、徐々に手応えが出たのではなく、突然そのときにポーンと。

内海 僕からすれば、川上が熱を出して出られなかったときに、若手の選手たちが「よし、自分たちがやってやる!」という気持ちになったのではないでしょうか。

鮫島 やってやるぞという気持ちでチームが一つになり、HCが不安になることを封印し、一か八かで臨んだら、全てが良い方向に進んだということですね。

内海 あの大会が私の中で、HCであることの意味がそれまでと大きく変わったきっかけになりました。

「変えて行く勇気」

鮫島 変えていくということは勇気がいります。実績のあるベテランについつい頼りたくなるのを一か八かの勇気が変えたということですね。

内海 若い選手たちの流れがとにかく良かった。この流れを切りたくないと思い、使い続けたら、良い方向に向かいました。

鮫島 野球の野村克也監督が「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」と言っていましたが、一見すると「不思議な勝ち」だったのかもしれません。しかし「不思議」ではなかったのでは? その不思議を呼び込んだのも勇気だったと思うのですが。監督の勇気があり、若手のハッスルがあり、それをベテラン勢が支えた。

内海 協会の上の人たちは「今、ベテラン出す時では?」と思っていたそうですよ(笑)。最終的には選手たちが頑張ってくれたおかげなのですが、HCとしては使い切るという判断が良い結果につながったのは確かです。

「ひらめきが降りて来る」

鮫島 この成功体験を次の若い世代に話されるときにはどう話されますか?

内海 バスケットを指導していると「今、ここだ!」という「ひらめき」みたいなものがある。そういうものは大事にして欲しいと思います。年齢を重ねれば重ねるごとに、そういうものの大事さを感じます。なぜかといえば、いろんな経験をたくさん積んでいくと「あのときこうだった」「だから、これだ!」というものがひらめく。
 なぜそうひらめくかのメカニズムは分からないけど、なぜかトーンと落ちてくるんです。そういうものを大事にして欲しい。
 野村監督が話していましたが、コーチは頭でっかちでいい。いろんなことを勉強した方がいい。でも監督はそれらを整理してかみ砕いて伝える。コーチがたくさん仕入れて得たいろんな情報を「これだ」と決めて伝えるのが監督の仕事だと。

鮫島 レベルは違いますが「わいてくる」「降りてくる」という感覚は分かります。67歳にもなってくると、事前に計画したことと違っていても「今これだよな」とひらめくことがあり、それが合っていることが多い。

内海 私もいろいろと経験を積んだので、リオ五輪の時は、いろいろと「降りてくる」ものがありました。

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「五輪をつかんだ!」

鮫島 日本のいろんな指導者の中で、2度、五輪の指揮を執られたのは内海さんだけですよね。もっと評価されてしかるべきです。2回、五輪を経験されたというのはご自身の中でどう考えていらっしゃいますか?

内海 最初の04年のアテネは、さすがに初めてということで右も左も分からないことだらけでした。世界との差、壁といったものも具体的には分かっていなかった中での大会でした。それから12年後、16年のリオ五輪は「そこを目指していくにはどういう準備が必要か?」を考え、その準備ができて迎えることができました。
 それまでは1年ごとの交代があり、長期でみることができたのが初めてでした。ロンドン五輪の予選で負けてから、リオにいくためにはどうすればいいかを考えて4年間準備をすることができた。僕自身も世界を見てきて、どういう戦いをすべきかを考えました。準備段階としては良かった大会でした。
 ただ4年間の中で結果を出していかなければいけない世界です。その中で結果もついてきました。43年ぶりのアジア選手権優勝、中国に勝って優勝するなど少しずつ結果がともなってついてきた。世界選手権ではあまり良い戦いはできませんでしたが、どうすれば世界と戦えるかを分かって臨むことができました。
 海外に行って試合する経験を多く積みました。今まであまりやらなかったことですが、選手も、我々スタッフもいろいろな経験を積む。それがリオのベスト8につながりました。あれこそやっていく中で上手になった、強くなったということなのです。

鮫島 1回目の経験でご自身の世界に対するエビデンスができた。あとはプログラムが作れて、それが成果を出しながらリオまでいけたということですね。まさしく「つかんだ」というわけです。すごいですね。震えます!

内海 自分でも成長していく過程を感じました。こいつら強いなと。それを感じたのが中国でリオ五輪の予選をやったとき、中国とやって30点差ぐらいつけて優勝した。あの時の選手たちは本当に強かったと思います。

鮫島 かつて手の届かなかった中国に30点差ですか!

内海 それがリオにつながり、どんどん強さが増していって、ベスト8まで勝ち上がりました。戦っていく中で選手たちの自信に満ちあふれたプレーも見ることができた。
 その中でも反省はあります。例えばオーストラリアにゾーンをひっかけられて負けてしまった。あれに勝っていればまた別のものもあった。勝てるゲームを落とした感じがありました。ただ、それであっても、やっていく中で、選手が強くなっていくのを感じられたのは、まさにあの時でした!

「コーチ トム・ホーバスとのコンビネーション」

鮫島 それはコーチ冥利に尽きますね。その後、トム・ホーバスさんがコーチになり(2010年、JXサンフラワーズ=現ENEOSサンフラワーズ)、内海監督とコンビを組まれていた試合を見ています。どしっと構えたHCに、周りでいろいろ動いていくアシスタントのような関係に見えたのですが、あの時のコンビネーションは実際どうだったのでしょうか?

内海 トムの場合は、「今アメリカでこういうものが良い」と言われているものを積極的に取り入れていました。トムにオフェンスの面を任せてみてもらっていました。

鮫島 私たちオールドバスケットマンにとっては、そういったいろんなものがつながって、今回の東京五輪の快挙があったように思えてならないです。

内海 当然、私が受け継いだ時も、その前の代表の人たちが脈々と作っていたものを受け継ぎました。代表選手たちはそれぞれの所属チームがあって、その中で作ってくれたものを預かって代表チームを作るのが私たちの仕事です。
 その意味では決して私たちだけで成し遂げたことではない。私自身も自分が作ったものを次に引き継ぐ。強化とはそういうものだと思います。みんなが「バスケットを強くしよう」という想いをもって取り組んでいた成果が、うまい具合に東京で出たのだと思います。

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「引継ぎ、繋げること」

鮫島 まさに昨年の東京五輪はそうやって受け継いできたものが「昇華」したということですね。
 話題を変えます。昔の話ですが、アメリカのいくつかのディビジョンごとの大学の選抜チームが日本にやってきて、対抗戦をする。指揮するHCに日本人の若いコーチをつけて勉強させる取り組みがありましたよね。この企画に嫉妬を感じていました。
 なぜかといえば、自分も例えばモーションオフェンスが分からなくて、アメリカのサマーキャンプの頃にマサチューセッツ州立大学まで行って、コーチを質問攻めにしたことがありました。勉強したくて、したくてたまらなかったので、そういう機会が中央にあったことに、地方でジェラシーを感じていました。そこに参加していたのが、小野秀二さん、鈴木貴美一さん、長谷川健志さんと、内海さんの確か4人だったと記憶しています。ああいう体験はとても魅力的に思えるのですが、どのように感じていらっしゃいましたか?

内海 あれは確か現役を終えて札幌大学にいた頃ですから、30、31歳くらいの頃だったと思います。何より本場のバスケットに触れるということが、ワクワク、ドキドキでした。
 NBAのドラフト1巡目にかからなかった選手たちがいくつかのディビジョンに分かれて選抜チームを作り、日本で試合をする。NCAAのHCが指揮をして、そこに私たちがアシスタントでついていました。
 選抜チームで、自分のチームではないので、HCたちは相当遠慮されていたと思うのですが、これだけは守って欲しいという約束事を作っていました。彼らはここで光るものを見せればNBAに呼ばれる可能性があるので必死でした。

鮫島 それをチームとしてまとめる力量がNCAAのコーチにはある。選手たちをリスペクトしながらも約束事は守らせる。日本に居ながらにして日本だけじゃない世界を、身をもって体験された。その世界に触れたというのはどうだったでしょうか?

内海 その体験があったことで、大学にいた頃、研修という形でアメリカに行くことができました。アリゾナで1年間、ルート・オルソンのところでモーションオフェンスを中心に学びました。その経験もそののち大きなものになりました。オルソンはバスケットだけでなく、人間的な部分もとても大事にしていたジェントルマンでした。

「コーチと選手、『判断力』」

鮫島 今はいろんな情報が氾濫していますが、鹿児島の若いコーチに、学ぶことについて助言があるとすれば、何かありますか?

内海 映像や情報は、今すぐ手に入ります。先程の野村監督の話に戻りますが、コーチは頭でっかちでいい。色んな情報を頭に入れておく。ただそれを選手に落とし込むときは、何を理論的にやって、選手にどう落とし込んでいくか、その判断力がHCには求められます。HCは選手を動かさなければならない。オートマチックに動かすのではなくて、その中で選手の一番良い部分をどうやって引き出すか。それぞれの一番良さを、チームとして何が良いのかを判断する。良いシューターがそろっているからといって、みんながシュートを打っても意味がない。それぞれの役割が何なのかを判断するのも仕事です。
 技術云々はいろいろありますが、それが本当に自分のチームに合っているのか、この選手に良いものであるのか…カテゴリーが上になればなるほど、判断しなければならないことが増えてくる。高校生を教える時でも「自分はこう思っているから、こうやれ!」ではなく、「こういうバスケットもあるから、こういうチョイスもある」ことを示してやる。特に学年が若い場合は判断を自分でさせる機会を多く持たせることが大事になってきます。

鮫島 頭でっかちでいろんな情報を仕入れて、引き出しをたくさん持つことは最低限必要なこと。目の前の選手をよく観察して、何を落としていくかをHCは判断する。その判断は選手自身が、オンコート、もしくはオフコートも含めて判断できるようにすることが軸であるということですね。

内海 そうですね。コートで判断できなければ、コート外でも判断はできません。逆にコート外で判断できる選手はコート内でも判断できる。
 私の場合はそこを一番大事にしています。

「続けて行くこと、変わること」

 先程のお話はリオの成功体験でしたが、アテネ以降の北京、ロンドンも、HC以外の立場で関わったり、関わらなかったりされている中で、様々な失敗の体験もあって、それを昇華したことも、リオにつながったということでしょうか?

内海 それは当然ありますよ。世界最終予選まで行き、延長戦までもつれて、あと1つ勝てばいけた、もう少し頑張ればいけた、そういう悔しさや反省を含めて、「よし、次は!」というモチベーションになりました。
 もしそこで「もういいや」と思ったら、今はないと思います。私自身、自分でも日の丸を背負ってプレーして、あと一つ、中国に勝てばロス五輪に行けたという経験がありました。「日の丸」に強い想いがありました。自分が関わった女子のチームを五輪に連れていきたい気持ちは強かったです。

 日本が世界とどう戦うかというテーマに対して、何か見えてきたものがありますか?

内海 日本のバスケットがどんなに頑張っても、身長差は埋めようがありません。どう頑張っても埋められないところを、どう頑張っていくか、戦っていくかをテーマに取り組んでいた中で、組織力や繊細さ、正確さ、粘り強さ、我慢強さ、日本の持つ良さがなくなってしまうと、世界とは戦っていけない。今挙げたものが1つでも欠けてしまうと、昨年の東京五輪の銀メダルはなかったと思います。反対に東京のような戦いをもう一度やれといわれてもできないでしょう。
 日本のバスケットは今ここまで来た。ここまで来た選手たちは必ずどこかで変わらなければいけない。また低迷する時期もあるかもしれない。しかし、この強化を止めてちがうことをやって上に行こうと思っても、これはできないと思います。強化は何より「続けていく」ことが大事ですから。
 多少順位的なものが落ちたとしても、先代から脈々と受け継がれてきたものを継承しつつ、そこに何か新しいものを追加していけば、結果はでてくると考えています。

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「男子ナショナルチーム=トム・ホーバス コーチの新たなる挑戦」

鮫島 最後の質問です。東京で結果を出したホーバスさんが今度男子のHCに就任しました。とても大変だと思いますが、代表選手の1人、ルーク・エヴァンスは鹿児島でデビューした選手です。気持ちのしっかりした子であり、3ポイントが打てる。そこが彼の起用に繋がったかと思うのですが、そういったことも含めて、今後の男子に期待するものを教えていただけますか?

内海 Bリーグがこれだけ盛んになってきて、土台が少しずつ固まってきた部分があります。その土台の中から代表を強くしていこうという流れになっている。その中でNBAに行くような八村や渡邊のような選手も出てきた。ルークのような数名の帰化選手も入ってきた。少しずつ世界に近づいては来ていると思います。
 今まで日本が世界と戦う上で、ウイークポイントだった部分が少しずつ埋まってきている。先ほど女子でも述べた正確性、組織的な部分、世界のどこよりも練習する忍耐力など、日本の良い部分は男子も女子も同じです。そこはトムも分かって引き継いでいくと同時に、結果も求められることになる。五輪まで一気に行けるかというところでは「?」もつくところはありますが、ちゃんと成長できるチームにしてもらえればと期待しています。
 これまでも話した通り、脈々と継続してきたことを継承しつつ、新しいことを付け足していく。分析も響きの良いところだけでなく、耳の痛いところもしっかりと頭に入れる。そんな経験をたくさん積み重ねて、いざ本番の舞台に立ったら、経験に基づくひらめきや降りてきたものを信じて戦うことだと思います。

【うつみ・ともひで】1958年12月7日、青森県三沢市出身。能代工高、日本体育大卒。ジャパンエナジーの前身・日本鉱業でガードとして活躍し、81-88年は日本代表でもプレーした。04年アテネ、16年リオデジャネイロ五輪で女子日本代表のヘッドコーチを務めた。

イラスト ぽたろ

【つかさの射的】

 リオ五輪のベスト8、東京五輪の銀メダル、女子日本代表の興奮の記憶がまだ頭にある中で、その中心になって関わっていた内海氏の話は心震えるものがあった。
 右も左も分からなかった04年のアテネは勇気をもって若手を使うという決断を下したことが予選を勝ち抜く力となった。12年後のリオはその後積み重ねた経験、実績を下に、目標を掲げ、綿密な計画を立てて必要なプログラムを遂行し、自信をもってベスト8を勝ち取った。その流れをトム・ホーバス氏らが継承し、東京の銀メダルがあった。「勇気」「経験」「継続」「判断」「自信」…バスケットを超えて世の中で指導的な立場、リーダーになる人に求められるものがここにあると感じた。
 身体的なハンディーという「埋めようのない差をどう埋めていくか」。日本のバスケットが世界で通用するようになるにはまだまだ時間はかかるだろう。しかし決してそれは不可能な夢でないと予感する。
 日本人が野球のメジャーリーグで通用するのは無理と考えられていた時代があった。かつて日本代表のサッカーがワールドカップに行くのは叶わぬ夢を思われていた。陸上百メートルで日本人が10秒の壁を破る日が来るのを現実に描いていた人は少なかった。しかし、今はどうだろうか? 「日本人では無理」と目されていたことも、先人たちの果敢な挑戦の継続があって、その壁が破れた現実を私たちは見てきた。
 日本人だから無理、鹿児島だからダメ…最初から諦めていたら何も現実は変わらない。勇気をもって高い志、夢を掲げ、そのために必要なことを地道に継続していく。その取り組みをやめない限り、かなわない夢は決してないことを今回の対談で学んだ。
(文責・政純一郎)

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