見出し画像

親の子どもへの心配はリスクである。

子育て熱心なお母さんを見ていて残念に思うことが心配のし過ぎ。ひどくなると、心配のあまり子どもの姿が見えなくなって、最終的には子どもへの注意の連発となり、子どもは聞く気持ちを失う。最終的には子どもは親の言うことを聞かないことをひそかに決意しする。そして思春期を迎えると、それが一気に親への反発や無視につながっていく。

しかし悲しいことに、親は善意と愛情で心配してきただけに、なぜ反抗されてしまうのかわからない。しかし、子どもの側からすればたまったものではない。立場を代えて、自分が親や舅、あるいは職場の上司などから細かに注意されればどんな気持ちになるかを考えればわかるはず。でも親にとって子どもは分身みたいなもの、そうした客観的な見方は難しい。愛情が深ければ深いほどそれがわからなくなることがある。

さらに問題がやっかいになることがある。それは、その子どもへの注意が正論であったり、重要であったりするほど、子どもには耐えがたい重圧になる場合だ。反論ができない、反発もできないとなると、問題は時間をかけて深刻化する。世の家庭にかかわる子どもの起こす事件の背景にはこれがあるように思うことも多い。

そこで強調したいのは、子どもを心配するリスクだ。親が子どものことを心配するのは当然で、だれも否定しないし、できない。でもやり方によっては大きなマイナスが生まれる。自分を信用していないのかという反発が子どもに芽生える。これが第一の子どもを心配することはリスクだ。だから心配するのはいいとして、それをそのまま伝えていいかは一度とどまって考えてほしい。

私たちが子どもを見ていると、けっこう反抗的と思われる子どもも意外に改善しようとしている。しかし、子どもの行動を減点法で評価し、足りない部分を指摘するばかりという人も多い。これが危険なのだ。大切なのは、子どもの小さな進歩を大きく評価することだ。あえて小さいことと表現したが、実は子どもにとっては、それは大きいこと。理解してくれるのを待っている。もし、そこで満点を基準に駄目出しすればどうなるか。

子どもたちにはけっこうな力を持っていて、しかし自信がないため力を出せないという子どもも多い、これなども親の心配から欠点の指摘ばかりになってしまって、その結果だということも多い。親の期待はいい。しかしそれは今の子どもに応じて、それを適切に評価してやらないと。間違っても、親の自信のなさを、感情的に子どもにぶつけることだけは避けてほしい。この自信の喪失は心配の第二のリスクだ。簡単に言えば、親があれこれ心配しているうちは子どもは全力を出せない。当然伸び悩むことも多い。心配がマイナスに大きく働くのだ。

一方、子どもを理解している親はそこがうまい。評価軸も子どもに合わせている。だから子どものほめてほしいことを、ほめてほしいときにほめる。このたタイミングを外すことはない。評価基準が子どもと同じなので、子どもを評価することもやり方も自然だ。きちんと子どもの事実を見て評価しているから、子どもの側は見てくれていたと安心する。またそこまで行った時点で問題点を指摘されたなら、反発どころか次は頑張ると言ってくれる。

ではどうすればそれができるようになるだろう。それは、子どもに期待していることを明確にして、それへの努力を促し、ほんのわずかの進歩でもほめることだ。つまりほめる場面を仕掛けていくのだ。そこが大きなポイント。子どもは自然に育てると言いながら、本質は放置しているような状況。これでは親の望むように行動してくれることは少ない。仕掛けなく、好きにさせておいて、子どもが何か親の期待を察して頑張るなんて、そうそうあるものではない。仕掛けなくほめることは難しいことを知っておいてほしい。

よく子育て本を見ていると「子どもをほめて育てましょう。」というものがある。でもそれは私が考える小さいことを大きくほめるというのとは違う。大きくほめるというのは、子どもの自己評価に合わせてほめるということ。何もそこを考えず、マニュアル的にほめようしても、一時は良くても、いずれうまくはいかなくなる。なぜってさほどのこともないのにほめていれば、だんだん子どもの自己評価自体が甘くなり、やがて親がそれに耐えかねて、暴発するからだ。

そこにあるほめるは、実はおだてるということ。豚もおだてりゃ木に登るというが、そもそもそれは豚の話である。ほめるという価値ある行為とまったく違う。子どもに対する敬意がない点で、ほめるとおだてるは根本的に違う。そこを理解しておいてほしい。悩んでいる親に耳当たりのいい言葉をささやき、問題が解決できるような錯覚を誘う。私にはそんな風に見えて仕方ない。

本当に価値ある行為や向上をほめるには、親の仕掛けが必要なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?