悲劇のヒロイン気質の私とその家族の話。

私は、前まで世界で1番不幸な人間は私である、誇張抜きでも福島で1番不幸な人間である。
と思い込んでいた。

このような、考えを持っているのには私の幼少期の経験が関係している。

私の家庭は、ことあるごとに罵詈雑言や拳が飛んでくる様な家庭だった。
母は、ヒステリーを起こしモノを投げ、挙句私を殴る。一方、父は無干渉であった。

母のヒステリーは彼女自身の幼少期の経験が起因していると私は思っている。
というのも、彼女の母…基、私の祖母は中国共産党の街宣活動に勤しむ一方 子育てを怠っていた。
母は毎日お米を自分で炊き、塩をふりかけただけのご飯を食べ、幼い妹の面倒を見ながら、死ぬ気で勉強する、という生活を送っていた。祖母が家から帰って母が勉強を怠っていると祖母は問答無用で殴った。そんな日々に加え、毎週日曜日には丘の上で、人が処刑されるのを見せられる。

そんな幼少期だったのだ。

彼女が幼少期に築き上げた感性は、当然大人になっても残っており、その教育方法は祖母から母、母から私になった。

父も母も仕事に重きを置いている人で、帰りはいつも7時以降だった。
なので私は、毎日友人の家に夜の7時まで預けられていた。聞いた話、月5万円取られていたらしい。

小学生2年生の頃から、洗濯、料理、皿洗いは自分でやるように教育され、それが出来ていないと母は、自身の幼少期の話を持ち出し私を責め立てた。
宿題も、学校から出された宿題+母からの宿題をしなければいけなかった。母からの宿題というのは、漢字やひらがなをとにかく上手に書きまくるというものだったが、当時の私にとっては苦痛だった。

しかし、その宿題があったから字が上手になったのでその事については感謝している。

そして私が1番覚えているのが、小学生4年の夏休みだ。
夏休み初日、母はたまたま仕事が休みだった。
母は朝8時頃、私の元に来て、夏休みの宿題を今日中に終わらせなさいと言ってきた。
私は怯えながら、母と宿題をした。
半分程宿題が終わったので私は試しに

「お母さん、宿題また明日やるから今日はゲームしてもいい?」

と聞いた。
すると母は急に鬼のような形相になり、ほうきを持ち出し柄の部分で正座している私の太ももを何度も叩き始めた。

「今日中に終わらせなさいっていってるの!このバカ!お母さんが休みのうち宿題終わらせなさい!」

といいながら、何度も何度も叩いた。
私は泣きながら、宿題をやった、涙で視界が滲んでプリントが見れないけど、とにかく死に物狂いで終わらせた。
次の日、宿題が終わった私はラジオ体操が終わってから友達とプールに行こうとした。
初日にあんなに嫌なことがあったから、あとは楽しいことだけだ。
と思い、更衣室で水着に着替えようとしたら私の太ももは内出血のアザだらけになっていた。

細長い棒の形をした模様が、沢山あった。
結局その痣は、プールの監視員をしている保護者から私の担任に伝えられ、私の母は虐待疑惑で呼び出される訳だが、長くなってきたのでまた後で書くことにする。

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