悲劇のヒロイン気質の私とその家族の話。2

私の母が虐待疑惑で、担任に呼び出されたその日の晩に私は母から殴られた。

「そんなことで、先生に呼び出されるなんて日本はおかしい。」と「なんで、痣が出来ているのにプールに言ったの?」と咎められながら。

それからというもの、私は親に付けられた痣を気にしてプールに行かないようにした。
母の都合で楽しみにしていたプールに行けなくなるのは本当に辛かった。
それ以前に、どう考えても母が悪いのに私が咎められなければいけないのか。理解が出来なかった。

時は流れ中学生の頃、母から殴られる回数も減った。しかし、母の精神的束縛は未だ健在であった。
家に帰ると、やれお金が無いだの、あんたはお兄ちゃんやお姉ちゃんと違うだの、そういう言葉を投げかけられていた。
家庭の中で溜まったイライラを発散する場といえば、学校だった。

虫眼鏡で、校舎の床を燃やしたり、授業中に紙飛行機を先生に向かって飛ばしてみたり、嫌いな奴の消しゴムを便所に捨てたり、挙句の果てに担任の先生を泣かせたりした。
そうするしかなかったんだと思う。
もっと別のやり方があったんだろうけど、当時の私はそれしかやり方を知らなかった。

家に帰ると、母のやることなすこと全てが気に食わなくて、言い返した。そうすると母はだいたい人格否定してくるようなことを言うので、さらに頭に来た。

この喧嘩というもの、八割くらいは俺が口論に負けて壁に頭を打ち付けるか、ライターで炙ったスプーンを手の甲に押し付けるか、カッターで手首を切る結果至る。
残りの2割は、母が泣きながら皿を投げ散らかす。

おかげで当時の俺は、手は火傷だらけ、手首は切り傷、額には痣があるケガだらけ人間になっていた。

中学は3年間ずっとこの調子だったのだが、高校生になってようやくこの関係に転機が訪れる。

今日はお花見に行くのでここまで。

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