彼女が家を飛び出したのは深夜二時を過ぎた頃だった。原因もよくわからない喧嘩はもう数えきれないほど繰り返されていて、ぼくらはその度に激しく罵り合ったり一週間以上互いを無視したりしていた。今回の喧嘩の原因もよく覚えていないが、とにかくもつれにもつれたそれで彼女は家を飛び出した。ぼくは二十分ほど家のなかをうろついてたばこを吸ったり布団にくるまったりしていたが、とうとうこらえきれない焦燥感に突き動かされて家を飛び出した。外は静けさのピークに達していて人通りは一切なく、時折遠くを走る車の音が聞こえて来る。家を出た瞬間に冷気が全身を突き刺して肌がピリッとした。ぼくと世界の境界線がはっきり引かれたみたいだった。暗闇のなか、ぼくは街灯の灯りを頼りに走り出した。

 彼女と出会ったのは高校生の頃だった。大会の人数が足りないとかで手伝いに行った放送部の後輩で、彼女は一際小柄なのにいちばん大きな声を出していた。少し低い少年のような声。渡り廊下のそばを通りがかるといつも彼女の声が聞こえる。そちらを覗き込むといつも小さな身体を精いっぱい反らし、高く高く声を張り上げる姿が見えた。そうやって声を出す姿はいつも力強く、ぼくは段々彼女のことが気になっていった。

 彼女に恋するようになるまでそんなにかからないことは自分でもわかっていたけど、そのときはある日劇的に訪れた。

 夏の盛り。目を開けているのが辛いようなよく晴れた日、四時間目の後の渡り廊下で彼女はプールで冷えた身体を陽に晒していた。それはまるで青春の全てを現したような美しい光景だった。どこまでも広がるような青空と制服の白いシャツの輝き。ひざごと抱いたスカートの上に彼女の濡れた髪がしっとりと垂れていた。頭をぶん殴られて目覚めたようにぼくは衝撃的に恋に落ちる。彩度の調整がぶっ壊れてしまったように世界が輝いて見えた。それからというものぼくは一ヶ月近く狂ったように彼女に求愛し、彼女は一生自分から離れないでほしいと言ってそれを受け入れた。高校生同士の愚かな約束事だったが、ぼくを取り巻く様々な問題とは裏腹にその関係は驚くほど長く続いた。高校を卒業し、ぼくが遠く離れた大学に入学し、その途中で彼女が上京し、互いにすぐに会いに行くことが難しいほど遠く離れ、それでも僕らは危ういながらも互いの関係を維持していた。それはひとえに彼女の努力によるものだったのだろう。
 彼女と付き合い始めてからぼくは少しずつ壊れていった。彼女のせいじゃない。ぼく以外の家族が全員家を捨て、残されたぼくだけが父と母の不和に晒されたせいなのか。それとも尊敬に足る存在だった父が外で放埓の限りを尽くし、自分の住む町の鼻つまみ者だったことを知ったことが原因だったのか。たぶんそれらもひとつの原因だと思う。だが、それよりもぼくはぼく自身の弱さによって次第に崩壊していった。何百日もの間ぼくは毎日のように落ち込んでいき、自信を失い、やがて自分が愛されるに足る存在ではないと思い込むようになった。彼女を疑い、傷つけ、世界のすべてを憎みながら自分自身を破壊することにやっきになった。それでも彼女は根気強くぼくのそばに居続けた。
 ぼくはそんな彼女のことがたまらなく嫌だった。彼女は美しく、可憐で、力強く、すべてのポジティブなもので出来ているようだった。彼女のことも同じように壊したくてたまらなかった。ぼくは彼女のことを徹底的に否定し、彼女を中心として疑念を渦巻かせ、自分の崩壊が全て彼女によるものだと思いこむ。そして彼女も壊れたときぼくは心の底から安心できると考えていた。

 携帯を取り出し、彼女にどこにいるのかと連絡する。もう三十分は街を走り回っていたが、彼女はどこにもいなかった。このまま二度と会えなかったらどうしようと思う。それが心配だからなのか、自分が引き金になって彼女に何かがあったら嫌だという保身からなのかわからない。ぼくは自分でもよくわからないままがむしゃらになって夜を走り続けていた。この時間でも空いているようなコンビニや駅前のスーパーにはいなかった。ふたりで行った公園も。よく仕事から帰るぼくを待っていた駅前のベンチも。思いつくような場所にはすべて行ったが、どこにも彼女の姿を見つけることはできなかった。息が切れてうまく呼吸ができなくなり、ぼくは路上で二、三度えずく。一口分のげろを吐いて少し呼吸を整える。
 何をやってるんだろう、と思う。全部終わっただけじゃないか。高校生のころからだからもう七年近くになる。子供同士の約束ならもう十分すぎるほど長い時間一緒にいた。どうせ最後まで一緒にいることなんてできやしないんだから、ここで終わらせればいい。彼女は時折母になりたいとこぼしていて、それはぼくと一緒にいる限り叶わないこともわかっていた。この夜の果てに彼女を見つけたとして、言葉を尽くし、まだ愛してると縋りつき、それで少しだけ関係を長続きさせることに何の意味もないことはわかっている。かつてあった美しい何かは既に自分が粉々に砕いてしまっていた。
 だけど、とぼくは思う。今度こそうまくいくんじゃないか。何のあてもなく大学を出てから、耐え難い嫌悪感を必死に堪えて正社員にもなった。自分を社会化することに少しずつ慣れてきている。ぼくはもっと良くなっていけるんじゃないか。もう一度彼女に会えたら今度こそこれまでの全てを謝罪し、ぼくはもっと普通の人間になれて、彼女と一緒にいられるんじゃないか。ありえないことだとわかっていてもぼくはその考えを捨てられなかった。愛なんて綺麗なものじゃなくてたぶん執着とか依存とかそういうものなんだろうけど、それでもその気持ちはぼくを動かし、ぼくは大きく息を吐いてとぼとぼと街を歩きだした。

 うつむいて歩きながら、何年も昔のことを思い出す。付き合い始めた高校生のころ、午前中で学校が終わった日。ぼくは彼女を自転車の後ろに乗せて下校し、人気の少ない堤防沿いで降ろしてふたりで弁当を食べた。よく晴れた夏の日だった。気持ちのいい風が流れ、若草の青い匂いが香っている。ぼくたちは他愛もない会話でいつまでも笑いあい、夕日が沈むころためらいがちに初めてのキスをした。ぼくはあのとき確かに満たされていてまだ何も見えない未来にも一切の不安がなかった。ひとつだけ確かなことがあると思う。人は変わっていく。だけど良い方にじゃない。素晴らしい考え方や美しいものが少しずつくすんでいき、死にかけのセミみたいにゆっくりとした足取りで死んでいく。いつその人が最も美しく輝くかはわからない。だけど、それはどこかを頂点にして決定的に損なわれていく。

 いつの間にか空が白んでいた。ぼくは彼女を探すことも忘れ、ただただ茫然と歩き続け、いつの間にか家の近くまで戻ってきていた。全身を包む疲労感と睡魔が家を飛び出したときの焦燥感をどこかに押し流していた。ぼくは重い足取りで家の鍵を開き、靴を脱いで寝室に入る。
 二人で暮らし始めたときに買った大きなベッドで彼女が眠っていた。布団にくるまり壁のほうを向いている。いつもよりもずっとベッドの端に寄って、彼女はまるで何かから隠れるようにして布団の中で眠っていた。ぼくは何分もかけてゆっくりとこの関係が完全に終わったことを感じる。あの素晴らしい日とはすべてが真逆だった。寒く、太陽の光はぼやけていて、彼女は美しいものの何もかもを剝ぎ取られて小さくなっていた。

 ぼくは静かにシャワーを浴びて、仕事の支度をして家を出た。

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