「こそ」の集積密度

ゆる言語学ラジオの「係り結び」の回が更新された。



この回で、「こそ」は「比較物があって強調している」と言っている(端的に言い過ぎ)。
土佐日記の文章であれば

中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。

「中垣はあるけれども」の一文で中垣以外があるのかないのかを比較していることが「こそ」で丸わかりである。

これを聞いていてふと学生時代にまったくわからなかったものがあった。反語である。
以下の文章を考えよう。

梅いかでや咲かむ

当然のことながらこれは「梅がどうして咲くだろうか、いや咲かないだろう。」という意味であることは当然わかる。私がわからなったのは、なぜ「いや、咲かない」の現代語の部分だ。現代語訳にした際「いや、咲かない」という謎の文章を追加して複文にしなければ反語にならないのがまったくわからなかった。
古語では「梅や咲かむ」と「梅いかでや咲かむ」と単文なのに、現代語訳では複文にするのが全く理解できなかった。

話は単純で、現代語では反語表現がほぼ文脈によるからであろう。「誰がそんなことをするのか?」が単なる疑問文か反語なのかは文脈によるので、あえて「いやない」と明示的に反語であることを示さなければならない。
このことが最近までわかっていなかったのだ。

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