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黄巾、公金に囚われるに際し、脱色する試み

1■ 2023年の劈頭・・・

内閣府・企業主導型保育事業の仕事はじめか、その「報告サイト」が改名されたのだが・・・なんと【公金管理システム】を、名乗りはじめた。

企業主導型保育事業のお知らせページ

「公金」なのだそうだ。

前世が(たぶん)・・・【黄巾党(賊)】のおいらとしては、おもわず、噴いてしまった・・・呵呵と。

蒼天已死(蒼天すでに死す。つまり、既存のシステムは、制度疲労の果て、だいたい終わっている、という意)・・・のはずなのだが、腐っても鯛・・・なのか、なんなのか。

お金に色をつけるものではない、と思えば、「血税」とか、「公金」とか、そうした色のついた表現をしないでいるのは(使わざるをえないときも、せめてカッコにいれるのは)、「庶民」のたしなみと思っていたが、そうではないらしい。

ふるさと納税や、クラウドファンディングなど、さらには、巷のスマートホンのなかには、電子マネーが押しあい圧しあい、有象無象が割拠するさまは、まさに乱世・・・ここ近年、まるで中世〜戦国時代には違いないが、その先の泰平は、まだまだ見えていいものではない。

2■ この列島の戦国時代

というと、ちびっ子たちが、まず関心もつのは、信長、秀吉、家康の国盗り物語だろう。(現代もまた、まさに「どうする?」の連続だ)

その昔、小さいころのボクも・・・滝田栄の演じる家康にふれたのが最初であったけれど、【仮面の忍者 赤影】といったジュブナイルな入り口からも、歴史物語に接していると、英雄たちの派手な物語より、ひれ伏しても、また繁茂する民草のほうに、シンパシーは向かうもので、その次に関心が移った【三国志】では、まさに【黄巾党(賊)】に、ひかれるのであった。

小学3年生のころ、吉川英治の小説や、それを元にした横山光輝のマンガ、それに柴田錬三郎、陳舜臣、人形劇のやつなど、三国志にも、いろんなバリエーションがあった。

その背景には、井上靖や、司馬遼太郎、平山郁夫など、中国大陸に関心を寄せ、主要なテーマにする文化人たちも多くいて、子ども心にも、彼らにそそがれる評価には、世間がもつ尊敬の眼差しを、感じていた。

そんな、40年くらい前を思えば、近年の隣国に対する態度変化は、興味深いのだが・・・さて、三国志の話しは、たいてい、その冒頭【黄巾の乱】と呼ばれるエピソードからはじまる。

3■ 黄巾党の抵抗運動

あたまに巻き付けた「黄色い布」をシンボルに、腐りきった漢王朝に対し、世直しをせまる民衆たち、その異議申し立ては、いわば【幸福の黄色いハンカチ】運動か。

漢室の末裔を自称する劉備は、義勇兵(ボランティア)を組織して、官軍の曹操らと共闘・・・黄巾党(賊)の反乱を鎮圧する。

2巻のタイトルは「黄巾賊退治」・・・賊を退治!なのだ

ここで、関羽や張飛といった腕っ節の強いキャラクターが、黄色いハンカチ運動の面々を、斬ったはったするところに、普通は、やんやと喝采を送るのだが・・・。

ちょっと待てよ・・・と、官軍の曹操は、まだしも、義勇兵(ボランティア)を募って挙兵した劉備たちは、いったい誰と戦っているのだろうか。

黄巾党に、そこはかとないシンパシーを感じていた、小さいころのボクは、こんな風に思うのだった。

【漢王朝の腐敗を正そうとする、黄巾党のほうにこそ、大義があるのではないか?】

4■ イエロー、ブルー、レッド

黄巾党の旗あげスローガンは、
蒼天已死 黄天當立
(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし)

幸福の黄色いハンカチ

劉備たちは、義勇兵(ボランティア)を募っているから、一見、民衆の側から立ち上がっているようだが、その実、漢王朝の復興が目的なので、蒼天いまだ死なず・・・いわば【出藍の誉れ】を目指していたわけだ。ニューブルーね。

そのなかで、乱世の奸雄・曹操は、正義のレッド!

そろいの赤いヨロイに、真紅の旗指物で、コーポレートアイデンティティを確立させ、官軍のなかにあって、紅天まさに立つべし・・・を虎視眈々、狙っているのだから、その才たるや、その後の事実が、すべてを物語っている。

黄・青・赤・・・と、三色団子のような三国志より、その後ほどなく、だんぜん、もっとレインボーな魅力あふれる【水滸伝】(※文末に注釈)を好んだ、ボクにとって、黄巾党(賊)へのシンパシーは、国盗り物語のなかで圧殺される、民衆の反抗運動に「梁山泊」の先駆形態を見てとった、ということなのだろう。

松枝茂夫の名訳が誉れ高い、岩波少年文庫

しかし、その水滸伝もまた・・・その世直しの物語が、泰平に向かうとき、ヤクザな面々も臣民に下り、体制に組み込まれてしまう。ことほど左様に、制度がもたらす公金の味は、蠱惑的なのだ。

そう、黄巾は、公金化するのだ。(これを、運動体の制度化ともいう)

5■ 貨幣を脱色する試み

冒頭、お金に色はない、と述べた。

お金を集めて、なにかをやりたい場合
お金を出して、それを応援したい場合

ふるさと納税とか、クラウドファンディングとか、ここ近年、まあまあ一般化された集金システムがある。

ともに、税金か、寄付金か、そんなイメージがあるが、その実際は「返礼つきの寄付的購買」とでも言おうか、納税額に応じた返礼品メニューや、金額に応じたリターンを物色するとき、そのカラフルな選択性向は、消費者のそれだ。

故郷へのサポートや、チャレンジャーへの応援は、貨幣を介した一般的な交換関係に還元され、「金は出しても、口は出さぬ」という態度が、ここでは「大人」のふるまいとなる。

そうした仕組みがスタートした当初、一見、それは、劉備たちが義勇兵(ボランティア)を募ったように、大義ある「参加」のように見えたが、ふるさと納税や、クラウドファンディングも、一般化され、手慣れてくると、それを行為する愉楽や、優位性が、低減してくる。

「金は出しても、口は出さぬ」を、論語の「民は、由らしむべし、知らしむべからず」で換言すれば、為政者側にとって、これほど都合のよい統治はない。

ところが、「金も出すし、口も出す」という、為政者側にとっては、少々扱いづらいケースの先に、さらに「体も動かす!」という、民主政を体現する活動的人格(ポリス的市民)を想定するとき、そこにおいて、色づけられた貨幣は文字どおり「色」をなくす。

公金とか、ふるさと納税とか、クラウドファンディングとか、それらを限定的な使用で足れりとすること(つまり色をつけること)から、より自由になるには、それでも「口も出すし、体も動かす!」・・・この態度のうちに、とどまること、だろう。

そうして、公金は色を脱し、本来の無色のカンヴァスに戻り・・・人びとの創意工夫と協働をつなげる、媒介の役割に立ち返るように思う。

民可使由之、不可使知之・・・徳治政治では、知らせるまでもない、という高度な理想状況なのだが

注■水滸伝

「三国志」か「水滸伝」・・・どっちが好きかというと、だんぜん水滸伝。

・・・中国は北宋の末期、汚職や不正がはびこる世の中になじめず、ドロップアウトしたキャラクターたちが、梁山泊というアジトに大集合。

【天に替わって道を行う】なんて、世直し宣言をぶちあげる。

ときの権威や権力者に対する【叛逆の物語】に、グッとくるもんで。

108人の豪傑、ヤクザものたちが集まるまでのエピソードは、血わき肉おどるのだが、物語の終盤、梁山泊のリーダーたちは、皇帝という権威に帰順、取り巻きの悪政=官僚たちを打倒することで国を救おうというロジックにシフト。
(なんだか、二・二六の青年将校)

しかし、理想主義の梁山泊より、一枚も二枚も上手で、したたかな官僚は、梁山泊を「官軍」に組織編成し、国境の「反抗勢力」(つまりは、梁山泊と立ち位置は同じ・・・)と戦うべし、という役割を与える。

これつまり、行政の下請け仕事ですね。

オルタナティブを掲げる勢力どうしが食いあい、その結果、なけなしの恩賞勲功を得て、名誉回復に甘んじるアウトローたちもいるのだが、物語の当初から満ちあふれたキャラクターたちの清濁あわせた荒削りな魅力は消え失せ、批判する精神は、権力によって飼いならされる。

というわけで、水滸伝って「おもしろうて、やがてかなしき」・・・運動体の事業化、制度への安住という世の常を歴史伝奇小説においてもみせられ、さびしい限りだが、そんな現実原則にも、プロテストするのが【水滸後伝】・・・理想をなくした梁山泊を離脱したレジスタンスたちの後日譚!とか。

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