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2◉景浦と沢村の再会

2016/8/10 執筆に加筆。

1944年の秋、タイガースの景浦將と(巨人)の沢村栄治が、西宮で再会しているそうだ。
しかし・・・甲子園のグランド上ではなく、西宮・鳴尾の軍需工場=川西航空機での再会である。

景浦は【松山商業】から法政、そしてタイガースへ
沢村は【京都商業】から巨人へ

日本のプロ野球は「沢村が投げて、景浦が打ってはじまった」といわれ、両者は戦前の伝説的プレーヤー。

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景浦と沢村をモデルにした記念切手
(小学5年当時に購入したもの)

しかし、その草創期は、軍靴の響きが高まる時代と、もろかぶり…
たとえば、景浦の阪神への入団交渉が行われたのは、80年前の1936年2月26日=【二・二六事件】のその日、雪の積もる銀座、いまの資生堂パーラーで、だったり。

再会前年の1943年、巨人に解雇された沢村は大阪の南海電鉄の車両工場で働いていた。この頃、沢村は南海に所属していた?という説もあるらしい。軍にエースを奪われたというより、巨人が捨てた人材を軍が取っただけともいえ、永久欠番にしたことも合わせると巨人によって「作られた歴史」と言えなくもない。

再会の直後12月に、沢村は屋久島沖で、景浦は翌年の春5月にフィリピンの戦地で亡くなる。(なお、沢村の娘さんは、現在、松山に在住されている)

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景浦の墓は、松山の郊外に(西法寺)

ふたりの再会の場となった川西航空機は、戦後【新明和工業】と名を改めて、水上飛行機などのメーカーとして、西宮のすぐ隣り宝塚・仁川に本社がある。

前回、武庫川沿いに甲子園口駅まで川西航空機への物資輸送の線路があったとふれたが、いま甲子園口駅には【新明和工業】の広告「救難飛行艇」が掲示されている。

さて鳴尾には【明和病院】という総合医院があって、名前から明らか、川西航空機の病院を前身とする。2万人の工員がいたというから、病院も付属する大規模な工場地帯であったわけだ。(この明和病院には、松山の中高時代の同窓生が勤務している偶然!)

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阪神タイガース80周年(2015年)のとき、
甲子園に掲げられていた「景浦將」の懸垂幕

戦争末期、西宮・鳴尾の軍需工場(紫電改の燃料タンクを作っていたらしい)で再会した、景浦と沢村の間に、どんな会話があったか知れぬが、そこで開発、生産された海軍の局地戦闘機【紫電改】は、景浦の郷里である愛媛・松山の航空隊(第343航空隊)に重点配備されることになるのであった。

沢村についての証言や、関連する資料は数多いが、景浦について評した文章は少ない中、埴谷雄高にエッセイ(ニヒリスティックな選手)があって、こちらの記事が、たいへん面白いです。

「 野球はスピードを基本としているゲームであるから、いかにも詰らなそうにのろのろとプレイしているプレイヤーなど見当らない筈であるが、私の記憶に鮮やかにのこっている最もニヒリスティックなプレイヤーとしてタイガースの景浦を挙げることができる。/ 阪神がピンチになったとき、レフトから呼び寄せられて、ちようどマラソンのウォーミング・アップのようにゆっくりとリズミカルにピッチャー・マウンドヘ走ってくるその嬾うそうなやや肥った躯つき / キャッチャーのサインなど見ていないように、まるでモーションもなく受けとるとすぐ投げ、またすぐ投げるところのこの世に面白きことなしといったニヒリズムの極致の態度 / ところで、或るとき私がそのニヒリズムの深さを喜びながら見ていると、鋭いライナーが景浦の肩口にとんでセンターへ抜けようとした。すると、驚いたことに景浦は右の素手でさつとそのボールをつかんだ。「春の椿事」という映画で、レイ・ミランドがやはり右の素手でライナーをつかみ骨をくだいてしまう場面があるが、いわゆる火のでるようなライナーをつかんだ景浦は、何事もなかつたような澄ました顔をして眉ひとつ動かさずもう次のバッターへ向かって第一球を投げこんでいたのである。 」

つづく〜次回から【松山篇】:3◉腕利きパイロットたちの343航空隊


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