生きざまって誰が決めんの?自分じゃね

ちょっとカッコいい出だしを考えていた。でも今朝のこの気持ちから中々そういう風にはならない。

この記事を構成するのは半分は愚痴であり半分は昨日考えていた伝えたいと思っていた想いの欠片だ。

この記事を書いている今前に記事にしたEagleを聞いている。


実はちょっと前スマホが壊れた。タッチパネルの一部が反応しない。治さなければ悪化しいずれ使えなくなる。しかしこのスマホにはバックアップでは復元しないデータがある。保険対象で治すわけにはいかない何故なら初期化されるから。バックアップで元に戻らないデータを保持したいなら選択肢はいくつか限られる気がする。どの道リスクはあり治すにも結構金がかかる。
逃げ場はなかった。
 で実は既に治した。治してから気づいたが液晶が格安スマホ並みになった。彩度が圧倒的に圧倒的に足りない。7.8万してこの携帯買ったはずなんだがこれは本当に屈辱。誰かに話さずにはどこかに吐露せずにはいられなかった。
ここではじめて私がスマホに鮮やかさを求めていることがわかった。彩度が足りないぞ彩度が。


『傷ついたのは、生きているから』



きっとそうなんだろうな。

私の心は鮮やかに怒っている。憎んでいる、不幸を。




が、いい加減タイトルを拾いたい

生きざまって誰が決めんの?自分じゃね

これは昨日傷心のうちとある人が私の色々な記事を見てくれ力を与えてくれたことに起因する。Eagleもそうだ。私にエンパワー、つまり力をくれる。

これは数値ではないのだ。私は生きざまを数値だと思っていない。
人生とは生きざまとは感情の激動だ。
何をもって成長とするか。成長とは誰かから与えられるものか否違うだろう。成長とはそのものの変化。人間でいえば歳取れば老いて身体も変化するが『心体的』にも変化するだろう。
つまり心だ。精神面だ。
生きざまとはこれにきっと起因する。生物学的なヒトの身体の変化とは違う。

生きざまだ。ヒトの心の歩みだ。それを数字で表せるか?誰かがぱっとわかるものか。否。それはきっと違う。葛藤が言葉でうまく表せないのと同じだ。我々ヒトにも言葉で出力できないものがきっとある。ここに苦しさやしんどさがある詰まっている。

生きざま

これを平たく今だけで切り取ればいわば精神の在り方だ。
なにをおもい何を信じる?自分の価値観ってなんだ
己の価値観ってなんだ。

『傷ついたのは、生きているから』

この局面において誰かは関係ない。誰が傷つけたとか関係ない。

生きざまにそれは関与しない。

生きざまとは常に己から生み出されるものだ。故にこの憎しみも、怒りも生きざまに成り得る。
何をどうするかを決めるのは自分だ。生きざまは結果ではない。

生きざまとは今を生きる輝き、痕跡ではなく、今を生きる者が心の内に内包し解き放ち輝く光だと私は信じている。



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