真っ暗でも生きる

なんというか悲しいことは連続するというか『なんでこうも不幸なんだろう』『こんなわたしなんて…』とひとり闇に堕ちるような自分をぶん殴りたくなるような自己否定感に苛まれるときがあります。自己矛盾すると自分を1番自己否定しやすい。許容してくれた自分自身も責め手にまわり出したら心は一気にささくれるに決まってんだろ。

人生は長い。

私はよく記録を残すようにしています。それは例えばこのnoteだとか現実のノートスマホの録音機能写真、絵を描く。なんでも私の人生の歩み。それを聞いたり見たりすると、なんというかスッと闇から解き放たれる。会いたくなるかつて私を助けてくれた恩人たちに。ああ、みんな幸せであれよな。私は不器用だ。不器用に生きている。人のように器用にこの世を生きていけない。
ときに自分を傷つけその沼から抜け出せない。そんなときはもう無限地獄だ。話せる人もおらず頼らず孤独に生きようとする私。これ1番沼から抜け出せないパターン。

悲しいけど自分はいつでも自分を応援してくれるわけではない。

私の自分はそう。あなたは?
ときに自問自答するし叱責する。反省とかじゃない。ときに怒りを自分にぶつけ、特に誰にも癒される予定のない自分を傷つけるのだ。私は多くの夢を語るがここが私の悲しいところ。厳しすぎる現実に直面すれば中々前に進まないのが常だ。理想を語る者は理想を語るゆえに多すぎる壁に直面する、であろう。ここで誰かを頼れたり余裕のある心ならいい。私は厳しい現実に直面したときに自分を追い詰め潰れてしまう。なぜか。誰にも腹割って話そうとせず独りを貫いた人生観がそうさせてしまう。ゆっくり落ち着いて考えられずありとあらゆるもの金-時間-期限に追い詰められた経験が焦って落ち着いて考えられない下地になっている。

いやでも待て。いつまで自分の人生の過去に縛られる?なんて思ったりもする。

この問答は正直自問自答よりも他者との会話で整理されたほうがいい。そのほうが何より自分と異なる自分にない考えを聞き考えが洗礼されていくからだ。考える要素も幾つか他者に寄りかかることが出来る。きっとこのほうが頭爆発しないぞ。

ここまで過去の録音内容聴きながら書いてきたがお分かりいただけただろうか。

あからさまに最初の切り口の悲しみ苦しみが伝わる文体から何故か整理がなされわずかかもしれんが前向きになってきている。
身をもってこれを証明したがつまり気分転換が成されたのだ。
悲しみは悲しみを直視するほど悲しみが心のど真ん中にあればある程悲しい。
しかしどうだ

人生は長い。

ここから僅かだが悲しみを心のど真ん中からどかそうとしている。
まあまずタイトルからして

真っ暗でも生きる

と現実を真っ暗と悲観の最大級レベルの表現をしておきながら最後には生きると生を肯定している。

負けたくないという意志は最初からあったわけで。

でも悲しみから抜け出すのは度合いにもよるがそう容易ではない。
これを人生は長い。という回想、録音を聴くというダブルで気分転換を図っている。まぁ録音内容がたまたまかつての恩人を想起させる内容だったからというのもあるが彼の人、彼の人との思い出、私のかつての歩みに想いを馳せることで今ある悲しみから離れ、少し遠い視点でいられた。


私は異端児だ。多分。
いや注目集めてないからこの場合なんだ?異端者?
なんだろうね、平和を愛するとかみんな平等にとかいう考えは別に異端でもなんでもない普通一般的な考えな気もするんだけど。

この自称異端発言には2つの意味が隠れている。



1つは特別でありたいということ。
特別は好き。人と違う個性が好きなのかな

二つ目は社会不適合者。
資本主義が嫌い。資本主義は世界中で大本流だ。行き過ぎた資本主義が良くないと言うが言われるが、今の私は資本主義自体をあまり好かない。行き過ぎた結果命や人の営みすら軽視するようになった現実を見ていると資本主義全体を悪とみなしたくなる、くらいに憎悪がすごい強い。それと社会を憎悪し過ぎて人間も信じられなくなってきている。大本流に合流出来ないならば異端だろう。でもそんなことより社会から弾かれた感がすごくて、だから自分を異端って思ってるし言いたいのかもしれない。

だから自分を異端者と自称しても全部がネガティブな意味じゃない。



圧倒的に真っ暗な世界

社会に弾かれた感が強いからか、どことなく自分が日陰にいる気がしてならない。それが今の私。

 この資本主義社会-資本主義的な世界に生きている限り自分で生産手段がない限りはお金が必要でしょ?
生産手段や一生働かずに暮らせるお金がない人は自分を労働力としてどうやったって社会に取り入れないといけないわけ。生きてくために必要な食べ物とかもそうしないと手に入らないからほとんど誰もが通らなきゃいけない道。非情な現実、と私は見てる。
このシステムを良く思わず、やる気も起きず無気力な私達を社会はあまり良く思っていない、みたい。
結果生きてくのも一苦労…?いや一苦労どころではないが一苦労だ。!


でもタイトル思い出して!

真っ暗でも生きる

自分に合わないデカすぎる社会はあまりにもデカ過ぎるし疎外感で凄く日陰…日陰も日陰でデカ過ぎるのでまるで暗闇にいる気分。
真っ暗の疎外感は凄い。

けど私は理想は捨てない。


生きざま記事でも言ったけど生きざまとは誰かが決めるものではないのだ!

生きざまとは今を生きる者が心の内に内包する輝き、それが解き放たれた光なのだ。
己が決める。他者は関係ない。


誰かにテストで点数をつけられたことがあるだろう?

生きざまに点数などないのさ…!


この輝きは自分だけのもの。
真っ暗だろうがなんだろうがそれでも私は生きると決めたのだ。


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