未来という地平線、過去という地平線、今という特異点。

※独り言のようなnote


20年以上の時を生きて、今のわたしからしたら、まだまだ未来は地平線のようにあるように思える。


一方で、


今まで。これまでの過去。
過去という名の地平線。
地平線のように思える時間を、記憶を、時代を既に生きたはずだ。


当然赤ん坊だった時代があって、幼な子な時代があって、きっとそのときには親も若くて、まだ生きていた人達がいて、そして小学生となり、中学生となり、高校生となり、その先があった。


その先でわたしは"引きこもり"になった。




いや、正確には'違う'ね。



わたしは1人で抱え込んだ。



わたしは他の人を疑った。


わたしは自分を疑った。


わたしは人と距離を置いた。



友達が居なくても生きてこられた。


それは支えてくれた家族が居たから。



今も家族におんぶにだっこだ。


だからわたしは社会人失格でも生きているんだ。





1人の人間として、


未来という地平線。


過去という地平線。



そして


今という特異点。




わたしは社会に放り出されて自由になった。


なにをするにもまさに自分次第になった。



自分が止まったままなら、石にでもなったつもりなら、それもよかろう。



でもこの時間は"虚無"じゃない


"0(ゼロ)" でもなければ "幻影" でもない





確かに存在する"今"

"今"という特異点。





わたしは確かに傷つき、自分を守るために自分の周りに繭を張った。
自分の心と身体に。


結果として'わたし'は生きたが、長い長い時間、ずっと、ずっと回復期間が続いた。
幸いなことにこの時間は地平線と言える程ではない。

…まぁ、その延長線上の今という特異点に今もなおその身を置いているのだが。




今という特異点にこそ無限の可能性が、1番の輝きが眠っている。




わたしは無限の可能性というものを信じている。
それを、今もなお信じたい。信じたい自分がいる。


夢がある。


理想がある。



それらは簡単には形容出来ない。


だから

"無限"


無限として曖昧にすることでそこに希望を見い出し活力とした。

それがわたし。わたしという在り方。



成長をやめたのか?

考えることをやめたのか?




わからない。


でもそれは違うと信じたい。





つら過ぎて未来を見ることが出来なくて、今という時間も感じられなくて、過去も認識出来なくなりそうな時代があった。
わたしの中の誰も知らないであろう歴史だ。



そんな窮屈で視界も狭く、空前の灯火だったわたし。



その灯火が繭を張り、無限の可能性とか言い出している。



やっぱり君は0か100しか言えないのか?


と自分自身を笑いたくなるのだが、ああ、ある意味そうかもしれん。


自分の在り方は容易に変えられない。

このnoteもただの自己満。




だが、だからなんだ。


終着点ではない。



今が終着点ではない。


そうやって初めて始まるのがきっと"今'.なんだろう。




そう、この物語には続きがある



誰も知らないであろう、誰が見てるかも知らない物語は、この旅はまだ途中も途中なのだ。





前途多難で結構。

厨二病で結構。



これは俺の人生だ。



何度でも奮い立たせて、


かっこ悪いと思っていた自分をかっこいいと思えるようになって、



そう。

何度でもこの特異点で足掻く。



かっこ悪い自分で終わらせたくないか
ら。




例えば人から"ダサい"と言われたとして、きっとわたしは傷つくんだろうね。


でもそれは本質的には大した問題じゃなくて、(いや傷つくんだろうが)


もっとも肝心なことは人からダサいと言われるどうこうよりも自分が、自分自身、己に対して"ダサい"ままでいることのほうがよっぽど問題だろう。





それこそ悪い意味でわたし自身の根本から変容してしまう。


物語の主人公の在り方そのものを変えてしまう。





この物語の主人公は、俺だ。


足掻け。


足掻いて、足掻いて、足掻け




それこそが今を生きる人間が出来ることだろう。


過去の人間じゃない、今だからこそ…

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