「無いお皿」を注文する男
まだ築地に市場があった頃の話である。
築地場内の食堂街はだいたい朝5時頃からやっている。前述の吉野家1号店は波除神社近くの門から入って、すぐ右に曲がった棟の一番奥にあって、その並びには何店舗か行きつけの店があった。
20代の頃は徹夜で仕事をして、その足で築地に向かうことが多く、中でもよく行ったのが「豊ちゃん」という洋食屋である。このお店、カツカレーとオムハヤシの発祥の店(どこが発祥かには諸説あるが)としても知られている。
自分がよく頼んでいたのは「オムハヤシ・カツのっけ」である。ハヤシライスにオムレツとカツをのっけた贅沢な一品でこれが抜群に美味しいのである。
このお店、お店の中央に柱があって、右と左でカウンターがセパレートになっており、注文相手が異なる。右側はヒゲの調理人のオジサンに注文し、左だと老齢の店主夫妻のどちらに注文することになる。確か奥さんが四代目のオーナーさんで、結構、厳しい感じだったと記憶している。
店舗の左側のカウンターに入ることが多かった。こちらの方が視界が広く、全体を見渡せるのが気に入っていた。カウンターに座り、注文をすると、店主夫妻のどちらかが注文を復唱し、オーダーの完了となる。
その日は何度目かの訪問だったので、普段とは異なる組み合わせを試してみることにした。常連の注文をきいていると「半個」というワードが頻繁に飛び交っている。どうやら「半個」はハーフのことらしい。そこで
「ハヤシライスを半個、あと、カニコロッケを一つください」
というと、店主のオジサンが
「えっと、カニコロッケ半個にする」
ときいてきた。なるほど、カニコロッケ(カニクリームコロッケ)はデフォルトだと2つで、1つの場合はこちらも「半個」とオーダーする必要があるのだ。
店主に
「はいそれで」
と応えると店主は店舗全体に響かせるように
「はい、カニコロッケ半個とハヤシ半個」
と威勢よく、復唱した。ほー、これでちょっとオレも常連ぽい注文に近づいたなと気分をよくした。
豊ちゃんのハヤシライスは普通のハヤシライスとはかなり違っており、ちょっと香ばしく肉は繊維質が残った状態でトロトロになっており、オリジナルの味わいが癖になる。
※豊洲移転の直前に豊ちゃんは閉店したため、ハヤシが食べられなくなったのは残念なこと極まりない。
注文を終えて、店内の様子を伺っていると市場の関係者と思われる男性、長靴をはいている、が店主と親しげに話しながら注文している。まもなく店主の復唱が店内に響いた。
「はい。無いお皿一枚。あとシンコ半個」
一瞬、耳を疑った。え、いまオジサン、なんて言ったの?
「無いお皿」
って何?
完全に暗号。しかも意味不明である。
「無いお皿」とは一体何者なのか。
厨房の中で料理人も平然と「はい。無いお皿いちまいー」と復唱している。
この時に衝撃はいまも忘れられない。「無いお皿」である。
どうやって注文、そして調理するのか。
ほぼ哲学的問い、いや、注文である。
衝撃の哲学的注文の内容はほどなく明らかになった。
長靴のおじさんの前に運ばれてきたのはお新香と白いお皿に盛られたキャベツととんかつであった。
え、「無いお皿」でなんでこれが出てくるの?
疑問は解消されない。そこで、勇気を出して店主のおじさんにきいてみると「無い」というのは「脂身が無い」を意味する符牒とのことであった。ほー、なるほどなるほど、市場といえばスピード命、店舗での注文も圧縮され、商品名ではなく、要点が抽出され符牒化し注文として成立するように独自の言語変化がなされていったものと思われる。
凄いなー、と感心しながらハヤシライスを食べていると、またひとり長靴のおじさんが入ってきて、店主に注文するのがみえた。まもなく店主の復唱が店内に響いた。
「はい。無いアタマとシンコー」
まだまだ、謎多き豊ちゃんの注文であった。
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