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カンニング竹山はサンミュージックから契約解除されかけていた

キレ芸誕生前夜 今となっては意外な話

(サンミュージック岡社長の連載の中からカンニング竹山の意外な過去の話(第9回、10回)を読みやすくまとめました)

ダンディ坂野ともう一人、岡社長が手がけ、第一線で活躍し続ける芸人がいる。
カンニング竹山隆範だ。

実は竹山、サンミュージックからは一度見捨てられ、芸人として終わりかけていた。“リッキー預かり”としてなんとか生き残り、岡社長のアドバイスを元にキレ芸を完成させ、ブレイクにいたった。

いまでこそワイドショーのコメンテーターや「探偵!ナイトスクープ」ほかバラエティ番組で大活躍しているが、そうならない未来が紙一重で待ち構えていたのだ。

「初めて会ったのは、確か人力舎時代の1992年でした。竹山が福岡から東京に出てきて、幼なじみの中島忠幸(故人)と『カンニング』を組んだばかりの頃です。ワタナベ(エンターテインメント)さんに所属していました。若手に経験を積んでもらうために僕らがやっていた、お笑いライブのネタ見せに来たんです。博多弁の漫才をやってました。この時は中島の方がインパクトがあったんですね。『印象には残るけど、残念ながら面白くない』と言ったのをよく覚えてます(笑)」

初期サンミュージックお笑い班に自ら売り込み

そんな竹山たちは、岡社長がサンミュージックに戻った話を聞きつけ、自ら「事務所に入れてください」と売り込んできたという。まだ数人しか芸人がいない時代だった。

若い頃、日頃の行いのせいで事務所からサヨナラされかけていたカンニング竹山

「僕はカンニングの人柄が好きだったので歓迎し所属になったのですが、新しいネタを作らないし、テレビ・ラジオの出演もない、ライブで受けない、と完全におちこぼれ状態でした。僕らとマネージャーは定期的に契約を継続するか否かの“クビ会議”を開いてまして、カンニングについては僕以外全員が契約打ち切りに賛成しました」

カンニングはダメ芸人だった クビ寸前で…

なんとカンニング、若い頃はネタも作らなければ笑いも取れない、落ちこぼれのダメ芸人だった。事務所にとっては所属させておく理由がない。2人はサンミュージックから追い出されようとしていた。

そこで救いの手を差し伸べたのが岡社長だった。

「僕らを慕って事務所に来ましたし、竹山は家が近かったからちょいちょい飲みに行ってたんですね。僕は“コイツは絶対に何か持ってる。サボってるだけや”と感じてたんです。だからその会議でこう言うたんです。『いらないなら、クビ前提でええから僕に預からせて』と。異存はなく、カンニングは“リッキー預かり芸人”となりました。とはいえ、ちょっと猶予をもらっただけ。早く結果を出さないと本当にクビでした」

実は岡社長、カンニングが契約解除になるのは避けられないと考え、前日から2人と打ち合わせをしていたという。

「『もう後はないぞ、本気でやるか?』と2人に確認ました。2人とも『本気でやります!』と答えたので、『会議で契約解除が伝えられても、黙って受け入れとけ』と伝えました。竹山は『借金があるから本気で』だったんですが、結果的にこの借金が竹山の“キレ芸”を産むきっかけになったんです」

漫才の型をイチから作り直す

〝リッキー預かり芸人〟として事務所に残ったカンニングに対し、リッキーこと岡社長は根本から漫才の型を変えることにした。

「それまでは上手な漫才をやろうとしていたんです。でも面白くない。普段から飲みに行って竹山の面白さを知っていたので、そういうところをいかしながら、どういうスタイルがいいのかイチから考えて作り直そう、という話をしました」

当初、竹山らは世に出た“キレ芸漫才”とは全く違う、正統派の漫才をやっていたという。“キレ芸”が生まれたきっかけは、竹山のこんなグチだった。

「飲んでる時に自宅の大家さんへのグチを言い出したんです。『大家がとんでもないやつなんですよ。家賃をちょっとためたら、サラ金の取り立てみたいにドアにベタベタ貼り紙されたんです。あの大家、俺を追い出そうとしてるんですよ。酷いですよ』と」

かつては「おもしろくない漫才師」だったカンニング竹山。
リッキーこと岡社長が個性をいかす漫才に作り直した

酷いのは家賃を払わない方やろ!とツッコミを入れたいところではあるが、岡社長は優しかった。

「僕が預かってるし、ある程度の面倒は見ないとと思ってたから『じゃあ大家さんにもう少し待ってくださいと話しに行くよ。で、どれぐらいためてるの?』と聞いたら、竹山の答えは『2年です』。中島と声を揃えて『2年!?』と驚きつつ、僕は頭を張って『ええ大家さんやないか!』とツッコんでました(笑)」

竹山の非常識なグチ、反射的に出たツッコミ…。岡社長のクリエイティブスイッチが入った。

「図らずも完全なボケとツッコミの形になり、頭の中で“コレ、いけるんちゃうか!”と閃きました。竹山がグチったり怒りながら理不尽なことを言い出し、中島がツッコむ、これや!と」

岡社長のアイデアから”キレ芸”が生まれた

カンニング名物”キレ芸”爆誕

その後、中島がキレるパターンも試して失敗に終わり、竹山がキレまくる型に落ち着く。実はその完成度を上げていくために参考にした芸人がいる。シティーボーイズだ。

「シティボイーズのライブで、きたろうさんと斉木しげるさんが話していると、遅れて現れた大竹まことさんが『お前らつまんねぇ話しやがって』と2人に言い出し、さらに客席に向かって『黙って見ているお前らもなんなんだ』とキレる。舞台上だけで収めず、客席に対してまでキレるのは、当時、かなり斬新だったんです」

当時というのは1980年代のこと。大竹まことはテレビ番組でもキレキャラとして暴れまくった。

「大竹さんがヒントとなり、もっと熱量を上げて突き抜けたことをした方がいいと考えて、竹山に『どうせ俺の漫才なんか見たくないやろ!って客にキレろ。客席に下りてお客を殴るぐらいやれ!俺がケツを拭く。どんどん怒れ!』と伝えました」

竹山のキレ芸が形になってくると「虎の門」(テレビ朝日)などのテレビ番組に呼ばれるようになり、2003年に出演した「めちゃイケ」(フジテレビ)の「笑わず嫌い王」で、ついにカンニングはブレイクした。岡社長のアイデアが見事にハマったのだ。

多忙を極める中、相方の中島は白血病のため04年12月から休養に入り、06年12月に亡くなったが、その後も竹山は「カンニング」を名乗っている。ある時期まで竹山が中島の遺族にギャラを渡し続けていたのは知る人ぞ知る話だ。

また、毎年行っている単独ライブは人気が高く、チケットは入手困難になっている。「放送できない内容なんですけどね(笑)」(岡社長)

カンニングと同じ時期にはヒロシもブレイクした。ダンディ坂野、カンニングらが屋台骨を支え、サンミュージックのお笑い部門は危機を乗り越えて継続した。以後、鳥居みゆき、小島よしお、スギちゃん、髭男爵、カズレーザー、ぺこぱなど、ブレイク芸人を次々と生み出している。

「サンミュージック内はお笑い進出反対派ばかりだった」

1997年に周囲の反対を押し切ってお笑い班を作り、ブッチャーブラザーズの招聘を決断した相澤正久会長は「うちは音楽事務所だったからね。始める前はお笑いをやることに反対する人ばかりだった」と語る。

今でこそ人気芸人を多数抱えるサンミュージックだが、1997年当時の事務所内は「お笑い班」設立に反対の人ばかりだった。危機感を抱いていた相澤正久副社長(当時、現会長)は将来を見据えて強行突破する

前出のように、芸人がいないため“ボキャブラブーム”には全く乗れず、テレビや営業で勢いを増していく芸人の姿を、外から眺めるしかなかった。ひとり危機感を募らせていた相澤氏は、当時、反対を押し切るために奥の手を使っていた。

音楽から総合エンターテインメントへ 「お笑い班を作ってなかったらうちの事務所はなくなっていただろうね」

「任されていた子会社・サンミュージック企画があったので、芸人をそこの所属にして始めたんですよ。5年ちょっとかかったけど、そこから伸びてくれた。十分な売り上げを出すようになっていたし、僕が社長に就任する時に芸人は全て本体の所属にしました。さらに文化人やスポーツ選手も所属するようになり、うちは音楽事務所から総合エンターテインメント事務所に衣替えすることができたんだね」

“お笑い班”を託されたブッチャーブラザーズはしっかりと結果を出し、相澤氏はリッキーこと岡氏に社長の座を譲った。

相澤氏はこれまでを振り返ってしみじみこう語る。

「あの時にお笑い班を作っていなかったら、うちの事務所はもうなかったかもしれない。間違いなく、コロナ禍は乗り越えられなかっただろうね」

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