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凪いだ海に小石が一つ、投じられるような感覚だったのをよく覚えている。
惰性で生きる中で思いつきで入れたマッチングアプリ。脳死で右スワイプを繰り返す中、私はずっと会いたかった人に画面越しで再会した。
私にとってその人は、唯の同じ高校の男性などではなくて、たとえ同じ高校の出身者の中でも他の人とは一線を画すような、私達とは別次元に存在しているような、言うなれば私の元に舞い降りた神様のような存在だった。相手がそうは思っていなくても、私は生きることを辞めたがったあの時から、彼のことをずっと慕い、想い、追いかけ続けていた。
たとえどんな別れをしたとして、ここで再会出来るのなら、私の人生の中でそれ以上に幸せなことは無いだろう。その思い一心で私はメッセージをやり取りした。

「ねえ、お姉さん、一人?」
不意に頭上から男の人の声が掛かり、携帯の画面を見つめるのを止め、顔を見上げた。
「一件だけでいいからさ、どう?」
街中に溢れかえっているような黒髪マッシュに適当に組み合わせられた黒いニットにカーゴパンツ。怪しさで言えばそういう大賞を受賞出来るほどの有り触れた出で立ちだった。
「人を待っているので」
「えーじゃあそれまででいいよ、少し付き合ってよ」
返事をするのも面倒で、ぼーっと視界の先を眺めていると、烏夜の中数多の人が目の前を行き交っていた。傍の男は続けて何か言っていたが、特に何を思うでも考えるでもなく、夜街の騒がしい喧騒とその男の声をバックミュージックに、その光景を見つめていた。
「環さん?」
数秒後、視界を遮るように目の前に現れた男。そしてその容姿を見た瞬間、この人を待っていたと瞬時に脳が理解した。
「シュウさん、ですね」
「ええ、行きましょうか」
先程私に話しかけてきた男を尻目に、私達はネオン街に向かって歩き出した。もう年の瀬を迎える夜街の中であんな奴など星の数程いるものだ。私の生は今夜、この男を軸にして回る。私はあの時から数年かけて、この男に会いに生きたのだから。
「数年ぶり、だね」
「まあ、3年ぶりくらいかな」
「こんな形では会いたくなかったけど」
「俺は会えて嬉しいよ」
「そうやって思ってもないことを言う癖は変わらないね」
「思ってもないかどうかは、俺しか分からないじゃないか」
「そういうところ」
ぽつりぽつりと言葉は交したが、心は既にここになかった。一人称視点のゲームをしているかのように、ふらふらと揺れる視界を外から見ている気分だった。今現在流れている時はゲームの中の時間で、動いている通行人はコンピュータによるもので、ビルも、喧騒も、肌寒い気温も、何もかもが作り物。私達を切り取って、全てが紛い物の世界に産み落とされたような、そんな不思議な気分だった。
頭上から緩やかに、淡い白の雪が降り注いだ。透明と白に包まれた丸いそれは、手に付着すると数秒経たずと溶け、その姿をなくした。寿命が数秒の儚い命、紛い物の顕現のようなものに思えた。
「どうしてマッチングアプリなんかしてるの」
「それはお前も同じだろ」
「私がこういう人なのは君がよく知ってるでしょ。でも君は」
「気が変わっただけ」
会話する気が無いようにただ吐き捨てて返事をする男。この人は本当に昔から変わらない。
「はあ、あの時私の心を支えてくれた君が、一体幾人に食い物にされてきたのか」
「別に、お前が初めてだよ」
「…またそういうこと言う。君はいつも私の心を動かしてばかり」
「動かそうとしてない、勝手に動いてるだけだろ」
「柊弥、好きだよ」
「知ってる。昔に山ほど聞いた」
彼に昔日、何度支えられてきただろう。何度心の拠り所となってもらっていたことだろう。私だけ与えられて結局私は彼に何も与えられなかった。私だけが満たされ、私は満たせなかった。ずっと引き摺って、ずっと会いたくて、ようやく見つけた先がここだった。こんなことをしている理由など些事でしかない。私はただ、彼に会いたかったのだから。

雪が降りしきる中、ネオンに照らされたホテルに入るのは、あまりにも妖艶で不気味だった。
粉雪のせいか視界が悪くなり、透明な空気がどんどん白色に染められていく中、存在を主張するように煌々と光り輝くネオン。電子世界が私達を包み込んだかのようなその異様な雰囲気に、私は呑み込まれた。
無人のロビーを抜け、部屋に入室し、鞄を置いてそのまま辺りを見回した。持て余すかのように広々とした部屋に、メイン料理のように存在感を放つキングサイズのベッド。申し訳程度にテレビやソファ、ガラステーブルなどが置かれ、細々と灰皿等が置かれている。
昔の私が今の私を見たらどう思うだろう。思考しようとするもその思考から逃げたいような気もして行ったり来たりしてしまう。でもこれは、私の望んだことで間違いなかった。それだけは確信していた。
「お前はこうなりたかったの?」
思考を遮るように突如ベッドから声を掛けられた。
「お前の願いは叶った?」
「叶ったよ」
彼の言葉に、何かに操られたように突き動かされてベッドまで歩き出し、そのまま彼の頬に触れて撫でた。陶器のように白くて、描かれたように艶めいていて、私があの時他の何よりも求めた、彼の肌に触れるという行為。
「初めては君がよかった」
「どうだか、お前嘘ばかりつくからな」
「嘘かどうかは私しか分からないでしょ」
視界が暗く落ちた。私はそのまま、彼の唇に口付けした。
唇に触れる、仄かに柔らかい感触。私の脳内へ響き渡る信号が、「ずっとこうしたかった」と鳴り響いて止まない。そのまま息を吸うように軽く口を空け、舌を出して彼の舌に触れた。舐めて、少し吸って、舐めてを幾度となく繰り返す。生暖かな温度に、飴を舐るような甘い感覚。だけど飴とは違って、お互いの舌が仄かに動いてまた絡まる感覚。口元から発せられる、微かに響く艶かしい音だけが、世界に存在しているようだった。
今の私を昔の私が見れば、悲願だと泣くだろうか。それとも、長かったと年月を悔いるように傷心するだろうか。私はただ、今この瞬間を紛い物の世界から切り取るように彼を求めた。私に応じる彼が、何を感じていたかは分からない。そもそも何故今日会ってくれたのか、応じてくれたのか、私がここまで本心を顕にしても拒否を示さないのか、聞きたいことは沢山あっても私はそれを呑み込んだ。この場に無粋なものなど不要だった。私には今この瞬間に溺れる権利がある。
許して欲しい、なんて居るはずのない神に許しを乞うた。私は今この瞬間のために、生きてきたのだ。
彼の片手が私の胸に触れた。もう片方の手が股へと向かい、私に今から起きることを悟らせた。幾度間違ってもこうなる未来があったなら、存外今までの生も誤りではなかったのかもしれない。私が彼に如何に心酔していたか、彼が今悟ってくれることを願った。私は喘ぎ、体を揺らし、生きてきた中で初めて「生」を実感した。彼と共に生きられる世界がこんなにも優しくて満たされるものだと実感する幸せは、想像の更に上を超えていた。

幸せはいつか終わる。
幸せが終われば神はその分抑えられていた不幸を背負わせるかのように、また更なる不幸が与えられる。
生きている限り私達は、永遠に幸と不幸の揺りかごに揺られ、そこから抜け出すことは出来ない。踊らされる世界、揺らされる世界、そんな人生が気持ち悪くて嫌いで仕方なかった。
幸せを感じてそれと同等かそれ以上の不幸へと引き戻されるのなら、私は幸せなど感じなくていい。形骸化した規律で整えられた世界で生きることを、辞めたくて仕方がなかった。
だがこの先不幸があるとしても、私には後悔したくない、汚したくない過去が今生まれてしまった。私はあの一瞬間に関しては、是が非でも後悔なんて念を感じたくなかった。世界を意地の悪い神が操作しているなら、きっとこの瞬間をも覆い隠すような不幸を用意するに違いない。私がそれに絶望して、あまつさえ後悔してしまうような、純然たる不幸を。
私はそれに屈したくなかった。手にした綺麗な瞬間を汚されたくなかった。

数時間後、ベッドからゆっくりと立ち上がり、裸足のままテーブルへ向かった。そのままカバンの内ポケットから半透明の小瓶を取り出し、そのままベッドへ戻るよう足を進めた。
すやすやと寝息を立てている彼の体に乗り、自分の脚の間に仰向けで横たわる彼を見つめた。乱れていても毛の一本一本に汚れのない綺麗な黒髪、長い睫毛、通った鼻筋、艶やかな肌に少し浮いた骨。何もかも、この世に産み落とされた天使のように、美して、儚い。私の元へ訪れてくれた、神様がそこに眠っていた。
この世の幸を今、全て受け取った。この後に私に訪れるのはこの世の不幸の全てだ。私の人生のデウスエクスマキナは私であり、私の人生は私の手で終わらせることが出来る。この幸せがこれから汚されるくらいなら、私は私の手でこの人生を終わらせる。これはあの時画面越しに再会した時からずっと考えていた。だから何の恐れも焦りもない。小瓶の蓋をゆっくり開け、中に入った透明な液体を静かに呷った。不思議と何も感じておらず、心は凪のように穏やかなままだった。
口の中に含んだまま、顔を近づけ、再び唇を重ねた。端から溢れ出る液体、条件反射のようにもごもごと動く口元、食道を液体が通過するのを許すように動く喉元、一滴残さず共有するように、流し込んだ後溢れた液体を舐ってまた唇を重ねた。
私の恋慕と、畏敬と、恭順と、崇拝と、心酔と、全てを混ぜて私を理解して欲しい。あの時のように、私を受け止めて欲しい。私の全てを捧げるように私は唇を押し付けた。視界が潤むようだったが、そんなことに構う暇もなかった。この口付けで、私の生も愛も全て終わる。悲しくなどない、その一心だった。
数秒経ち、糸を引いたまま口を離すと、気が抜けたのか私の視界も度数の高い酒を食らったように眩んだ。ぐらぐらと揺れる視界を抑えるようにマットレスに手を着くと、着いた手が彼の左手にこつりと当たった。薬指にきらりと光る輪。外にいる時は手袋をしていたため気づけなかった。いや、たとえ気づいていても私は気付かないふりをしただろう。今がどうであったといえ、私はあの瞬間に溺れたことに後悔はない。ようやく終わる。今まで長かった。彼を想い、生きた生。それが今こうして終わるのならば、私は幸せ者だっただろう。
頭が霧の満ちた中を歩いている時のようにぼーっと浮き、視界が緩やかに揺れ、吊られていた線を切って離されたように彼の隣へ倒れ込んだ。
終わりゆく生の中で最後に目に映るのが彼の顔なら、存外、今までの全ての瑕疵を清算出来るような気さえする。
こうして、私の愛は終わった。

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