80冊読書!7冊目 里山資本主義

前回からなんと3ヶ月半、時間が経ってしまった。。。きっかけは体調不良。もしかしたら新型コロナだったのかもしれないが、3月末のあの状況では当然のことながらPCR検査も受けられずよく分からないままとなってしまった。そして、その後、自律神経の不調が続き、読書もままならず時間が経ってしまったということだ。実はすでに1ヶ月半以上前から読書はできる体調には戻っていたが、「読むモチベーション」が戻ってこなかった。

私のもう一つのライフワークにランニングがある。昨年はフルマラソンまで走り、今年はサブ4!と意気込んでいたが、コロナ禍で大会は早々に中止が決定。さすがにランニングをする体力はなかなか戻らないまま、6月後半を迎えてしまった。どうやら私の場合、ランニングをすることと読書をするモチベーションとは連動するらしい。ここにきて、ようやくランニングをスタートすることができた。それによって改めて「読書しよう!」というモードになってきたのである。

ただ・・・1つ変更点がある。それは当初決めていたジャンルから外れた読書をスタートしたいということである。スタート時点では「歴史・哲学・人類史」と決めていたが、この3ヶ月の間に、さまざまな考えが頭をめぐりはじめ、歴史だけでなく、他の書籍を読みたい欲求が高まったのである。当初から掲げている大目的の「 知的好奇心を満たすために読書をする」ことからはずれていないので、許してもらおう。

さて復帰の1冊目は藻谷浩介さんの『里山資本主義』である。実は1ヶ月ほど前に藻谷さんの講演を聞いて興味を持ったことがきっかけとなった。コロナ禍において自身の考えを自信満々に話す藻谷さんの本を読みたくなったということである。

第1章 世界経済の最先端、中国山地ー原価ゼロ円からの経済再生、地域復活

この本のスタートは中国地方での木材を使ったバイオマスによるエネルギー事業の話から。私はそもそも社会の進歩や技術の進歩に対して楽観的で前向きなタイプなので、やはりこの手の話はどうも苦手である。地方創生にもあまり興味がない。特に死にかけた商店街の活性化など大反対をしたくなるタイプだ。ただ、時代の流れなのか、この章を読んでいて思い当たるふしが過去の経験のところどころにある。

私は群馬県に住んでいるが、この山の多い県らしく、知り合いに広大な山林を持っている人がいる。その山林は相続によってその人のものとなったが、長らく「誰かにタダでいいからもらってほしい」と言い続けている。とにかく管理が大変なのだそうだ。昔は林業でもやれたが、今はそれだけコストをかけたところでお金にならない。もっとも長年放置した山では売り物になる木すらないらしい。

一方、今回のコロナで都会の密に嫌気がさしている人も多い。私の妻も東京と群馬を往復する生活を送っているが、やはり群馬に戻ってくるとほっとするらしい。とにかく広い土地、豊かな自然、密を気にしないでいい生活。東京とは圧倒的にストレスが違う。

地方の一番の課題は「仕事」だろう。この章に出てくる地産地消的なバイオマス事業などはそうそう簡単にできるものではない。しかし、リモートでの仕事が定着していく世界では、地方のリアルと都会からのリモートの組み合わせで、新しい仕事を生み出すことは可能なように思う。

可能性という観点で見ると、コロナ前後では地方の可能性は大きく変わってきたように感じている。

第2章 21世紀先進国はオーストリア

今、世界の中央銀行はお金を刷りまくっている。ここ最近、株に投資をしているが、株式市場がコロナ禍でも実態経済と乖離して進んでいることは明らかに感じる。これだけカネ余りの状況なので、そもそも実態経済を反映することはないのだろうと、やや冷めた目でマーケットを眺めている。そのほうが間違わないで投資ができるからである。この点で私もここに書かれている「マネーのモンスター」の片棒をかついでいる一人でもある。

ヨーロッパは観光でしか行ったことがない。しかもオーストリアはまだ未踏である。来年行こう!と思っていたが、コロナでどうなるか分からない状況となってしまった。林業の規模が最先端で大きいと書いてあるが、ヨーロッパでは農業も全般的にそうなのではないだろうか?

オーストラリアではペレットボイラーのために貯蔵庫にタンクローリーでペレットを補充するらしい。我が家のすぐそばでいつも週末になると「薪割り」をしている人がいる。その家には薪の貯蔵庫があり、大量の薪が常に保管されている。あの家はお風呂も薪なのだろうか?いつも気になっている。しかしペレットボイラーなら薪割りの必要もない。北海道で灯油のタンクが外にあるようなものなのだろう。

林業の哲学は「利子で生活する」ということ

森林資源を再生可能エネルギーと見るか?はこの哲学によるところが大きい。ここで出てくるギュッシングという町の事例は財政難にあえぐ日本の地方に光明を与えてくれる。

中間総括「里山資本主義」の極意

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。
「矛盾する二つの原理をかち合わせ、止揚することで、一次元高い段階の到達できる」という考え方を弁証法という。この弁証法的思考を生んだのが、ドイツ語文化圏だ。そこに属するオーストリアで、マネー資本主義的な経済成長と同時に、里山資本主義的な自然エネルギーの利用が追求されていることは、むべなるかなと言える。

なるほど、どうも里山資本主義というものの考え方は、マネー資本主義との共存を試みるものらしい。こういうハイブリッドの考え方は結構好きだ。物事は常に100か0かで決まるものではない。ハイブリッドな経済を支えるしなやかさ、柔軟さが必要になっていく時代なのだろう。

言われてみれば、群馬に住んでいると圧倒的に東京とはコストが違う。土地がものすごく安いので、家賃も驚くほど低い。でも仕事は東京で行ったりもする。なぜなら新幹線で1時間という距離だからである。このハイブリッドな状況をさらに一歩ずつ進めていった先に藻谷さんの提唱する里山資本主義があるのかもしれない。

私が時々行くある料理屋さんは、まあまあ高級なところなのだが、いつも自分の実家でとれた野菜を食材の一部として使用している。その食材を出すときはいつも大将が教えてくれる。東京のお店だったらそんなことはできないだろう。

「貨幣換算できない物々交換」という言葉が出てくる。私の会社でエンジニアと話をしていたときに「エンジニアとして技術を学ぶのは面白さ6割、将来の自分の価値のため4割」って感じだと言っていた。仕事の中身はお金でない部分のほうが大きいと。貨幣価値だけで測ることのできないことは、これから増えていくのではないだろうか?仕事という観点だけでも働く自由度、場所など、お金には代えられないものがより多く占めてくるのかもしれない。

第3章 グローバル経済からの奴隷解放

瀬戸内海の景色は素晴らしい。福岡で育った私にとって、海の存在はとても大きい。特に瀬戸内海は波もおだやかで、気候もおだやか。日常生活に船が行き交う風景は山国の群馬では考えられない生活だ。

地方での事業は大変ではあるが、東京とは違う景色が広がる。東京ではありとあらゆる最先端の事業が揃っている。そのため「差別化」といってもとても大変である。しかし、地方にいると、周りはゆったりしているので、少し先進的な考えを入れるだけでも抜群に目立つようになる。地方ならではの魅力をミックスできれば、東京とはまた異なる味付けができるもの。

「ニューノーマル」が時代を変える

最近よく聞く言葉だと思っていたが、この本が書かれたのは2013年。この時のニューノーマルはリーマンショック後に使われていたもの。今回のコロナでもニューノーマルという言葉が出てきている。今後も10年に1回くらいは社会が劇的変化に見舞われ、また「ニューノーマル」と言われるものが現れてくるのだろう。そんな世界に生きていることを実感する。

第4章 “無縁社会”の克服

「税と社会保障」の話のところで、読み始めた瞬間に奄美大島の宇検村というところに旅行に行った時のことを思い出した。私たち夫婦を案内してくれたのは知り合いの弁護士さん。この宇検村出身で、京都大学を卒業後に大阪で大きな法律事務所を経営している方である。

宇検村は奄美大島でも南の端。空港から2時間もかかる、まさに過疎の村である。その旅行の際は案内してくれた弁護士さんのおかげで、宇検村の村長さんが気軽に村長室に招き入れてくれたり、知り合いの村役場の方が夜、絶滅危惧種のアマミノクロウサギを観察しに連れていってくれたり、貴重な経験をさせていただいた。

その弁護士さんのお話しで興味深かったことは、奄美の過疎の村で暮らしているお年寄りは現金収入がほとんどなくても生活保護など受けずに生活しているということだった。例えば年金が月に3万円ほどしかなくても、食べるものは自作したり、周りの人がいろいろな作物をくれてりするから生きていくには全く困らないそうだ。

お金の力が恐ろしいと思ったのはそのあとに続く話である。宇検村のもう少し南の地域に有名な近大マグロの実験所ができることになった。そのあたりの土地はもう人が住まなくなって長く、登記簿上と違い、誰の土地だかよく分からなくなってしまっているものもあるらしい。ところが、近畿大学がくるとなった瞬間に、多くの所有権を主張する人が現れてきた。村はそれまで平和だったが、お金によって人間関係がものすごくギスギスしたものになってしまったらしい。マネー資本主義の恐ろしさといったところか。

「村に若者の仕事をつくってあげたい」と言われ、私のやっている事業の一部であるコールセンターをここでやらないか?という話まで持ち上がったが、そういえば結局実現はしていない。その弁護士さんの話では奄美では将来的な仕事のために標準語をしっかり話ができるように教育しているという話を聞いた。

この章の内容とは全く関係のないが、里山資本主義の考え方に当てはまる思い出だと感じたので長々と書いてしまった。

途中から出てくる「無縁社会」についてだが、群馬県という地方の住宅地に住む人間としては、地方でも無縁社会化はどんどん進行しているように感じる。そうはいいつつも「誰かが」「少しだけ」尽力するだけで、実はこの無縁社会化は解消できると思ってもいる。それは以前に自治会活動に少し参加していた時に感じた経験からである。そのとき会社をリタイヤした年配の方が地域住民のつながりについて真剣に考えている方がたくさんいることを知った。地域社会のつながりを再度つくりあげることは知恵を絞れば東京よりは簡単に出来上がるだろう。

第5章 「マッチョな20世紀」から「しなやかな21世紀」へ

群馬でIT系の会社を運営していると、東京からのUターン、Iターンの人間が転職してくる。「自分が育った田舎で子育てをしたい」とか、「東京で子育てをするのは何か違うな~と思ったんですよね」など、子育てのタイミングで群馬に移住する人は多い。そう考えてみると、社内にはこの里山資本主義の考え方に共感するメンバーも多くいそうだなと改めて考えさせられた。ここから新たな発想を生み出すことで、単に今の事業を成長させること以外の社会的価値すらも作っていけるところにいるのではないだろうか?

最終総括 「里山資本主義」で不安・不満・不信に訣別を

疑似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽り合って高め合う場として機能してしまう。

今回のコロナにおける政府、行政の対応やマスコミ、そして国民を見ていると、まさに!という言葉である。経済的な繁栄への執着についてもそうだが、「コロナに負けない」とか「コロナを根絶」とか思っている人間の横柄さには同じ根源的なものを感じてしまう。人間が病気になってはいけないし、死んではいけないと思っているならば、あまりにも人間を過信しすぎである。我々はこの世界に生きる動物の1種でもあるという謙虚さを持ち合わせるべきだろう。

「何もしないで大丈夫」とまで言っているのではないが、事実をしっかり認識し、ゆっくり落ち着いて適切に対処すれば問題はないと言っている。「大地震も大噴火も来るだろうが、それで日本が終わりになることはないし、あなたも私も十中八九どころか1000に999は大丈夫だろう」というのと同じような話である。

これは「不安」が支配する社会に生活していて、時々思い出したい言葉である。

この「里山資本主義」は読み始めた段階では、それほど刺さるものではなかったが、読み進めるうちに「思い当たること」がどんどん出てきて、じわじわと考えを改めさせられる本であった。

これまでの歴史・哲学・人類史の本とは違うジャンルの本も加えることになったのだが、自分の頭がとても身近なことにまわりはじめたこともあり、いい体験となった。今後もジャンル問わず!で80冊読破へ向かって一歩一歩までに進んでいこうと思う。

80冊読書!7冊目 里山資本主義 完


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