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呪われた種族は秋葉系文化愛好者やポルノ愛好者か?

『教皇改革の研究』という大部の著を読んでいて、現代の表現規制問題に通ずる箇所に出会った。

4世紀の司教パフヌティウス「すべての者が絶対的な貞潔を守って生活できない以上は、無理な要求を強いることによって教会を傷つけてはならぬ」(『教会改革の研究』p353)

「絶対的な貞潔」を「ポルノを一切鑑賞せず過ごすこと」と置き換えると、今に通ずる。

グレゴリウス7世の頃の聖職者「すべての聖職者にたいして一律に独身を強制するのは、人間の弱さを忘れた教会の上長が偽りの熱意に駆られてやったことであり、かえって性的災厄の増加をまねいている。あまりに気高い道徳的理想をめざすのは現実にはむしろ危険であり有害だ」(p368)。

「独身」を「ポルノ鑑賞の全面的禁止」と置き換えて読み直すと、今に通ずる。

「あまりに気高い道徳的理想をめざすのは現実にはむしろ危険であり有害だ」という一言は重い。表現規制法(児童青少年保護法、すなわちアチョン法)が実現してしまった韓国では、危険さと有害さがすでに問題になっている。

表現規制主義者や、秋葉系文化とポルノを撲滅しようとする者たちは、4世紀の司教パフヌティウスの認識にすらたどり着けていない。

パフヌティウスは堅く独身生活を守っていながら、寛容さを示した。

1700年後の表現規制主義者は?

どれほどの愚かさまで後退しているのか?

表現やポルノを規制・撲滅しようという連中は、人間も、人間の弱さも理解していなければ、欲望も理解していない。

理解せず行った主張と政策が幸せをもたらすと?

まさか。
逆に災禍をもたらす。つまり、危険と有害を振りまくのだ。

西方キリスト教会が11世紀頃に「聖職者は全員独身!」と舵を切ったのは、マニ教の禁欲主義が大きかったようだ。だが、マニ教と対抗するために、理想ばかり唱えて、現実や実効性を取らなかった。

バチカンは、2016年現在もなお、聖職者は独身であるべきという態度を変えていない。そして、毎年、聖職者による大量の性的被害者を出している。

現代日本の場合、マニ教に該当するのは、キリスト教原理主義的な表現規制主義者や表現規制主義団体だろう。彼らに合わせれば、有害と危険が倍加する。

ちなみに11世紀、教会で聖職者独身運動の旋風が吹き荒れた頃、聖職者の妻帯によって生まれた子供たちは「呪われた種族」と言われ、聖職から排斥された。

今、ある性的嗜好の持ち主や秋葉系文化の愛好者は、キリスト教原理主義的な表現規制主義者には、「呪われた種族」に映っているのかもしれない。

だが、呪われた種族はどっちだ?

我々か?

表現規制主義者の方ではないのか?

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