鍵括弧で重ね書きする手法について

鍵括弧で重ね書きする手法について

鏡裕之

 ぼくが問題にしていた(つまり、志望者に対して注意を喚起しようとしていた)のは、鍵括弧を重ねて複数の人が同じ台詞を表現する手法である。


 たとえば3人が同時に同じ台詞を言ったことを表現しようとして、

「「「えっ!」」」

とカギ括弧の力(記号のヴィジュアル的力)を借りて表現する。
 非常にヴィジュアル的な要素の強い表現(ヴィジュアル的な助けを借りた表現)である。

 アルファベット言語の人から見ると、日本語はピクチャーに見える。つまり、ヴィジュアル的である(ぼくが日本語で文章を書いている時も、「どれくらい空間を開けて……」とヴィジュアル的な計算を働かせている。対して、英語を書いている時には、そういう計算はしていない)。

 さらに、ラノベはアニメ・まんが的な要素を持っている

 この2つを総合すれば、ラノベにヴィジュアル的な助けを借りた表現が生まれるのは宿命と言える。鍵括弧を重ねて表現する手法も、そのヴィジュアル的な表現の1つとして捉えることができるだろう。

 そういう表現がラノベに生まれることは、宿命的であり、ある意味、必然的であるとぼくは思っている。個人的には趣味ではないが、趣味ではないからといって否定する気持ちは持っていない。

 ゲームのシナリオには全然不向きだし、不適切な表現だと思うけど(ゲームでは、話者が表示されるので、「「」」を使う必要がない)、ラノベの世界では、表現としてはありだろう。

 ただ、その表現を書き手、すなわち「志望者やデビューしたての子たち」が使ってしまうことは、あまりよくないのではないかとぼくは思っている。

「「「えっ!」」」

とカギ括弧のヴィジュアル的記号の力を借りて表現するのではなく、3人の声が重なり合っている様を地の文でイメージさせようともがく。そういう流れにもっていこうともがく。そういう「もがき」が、志望者には必要ではないか、とぼくは思っている。これはぼくが何回も投稿をくり返してきたこと、そしてぼくが25回シナリオ講座を開いて、500頁超のゲームシナリオのハウツー本(元のタイトルは、『美少女ゲームシナリオバイブル』、今は『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』)を著して得た実感である。

 志望者にとって、文章力は、あるものを表現しようとしてもがくところから育まれる。適当に書いて、適当に看板を書いておけばいいや、という感じでは文章力は伸びてくれない。

 ヴィジュアル的記号の力を借りることが悪いことだというわけではないけれど、文章力を培おうとしている志望者たちがヴィジュアル的記号の助けを借りてしまうと、「もがく」のが中途半端になってしまう(その可能性が高くなるのではと思っている)。ぼくが志望者の頃だったら、たぶん、「わ、これヴィジュアル的で面白い」「使っちゃえ使っちゃえ」と言って、多用しているんではないかと思う。

 表現しようともがいた上での鍵括弧の重書きならば、意味を持つ。けれども、志望者の場合、表現しようというもがきは中途半端になったり、そもそも行われなかったりすることが多い。さらに、志望者はどうしても楽な方向に逃げてしまう傾向がある。

 もがかずにヴィジュアル的記号の助けを借りることは、あまり志望者のためにはならないだろう。まだ文章力を形成途中の志望者が、もがかずに鍵括弧を重ねて表現すること、それはきつい言い方、すなわち、「別にばんばん使ってもええやん」と思ってる文章意識の低い志望者たちに強く注意を促すための言い方で言うならば、「ズル」ということになる(「ズル」とは、文章意識の低い志望者たちに強く注意を喚起するための言い方である。言葉には、performativeな言い方とconstativeな言い方がある。「この犬、噛みつきます」という立て看板があった時、「噛みつく犬ですよ」という意味内容を伝える言い方がconstative、「だから近寄らないで」という注意などを伝える言い方がperformativeである。「この馬鹿!」という言い方にしても、「あなたは馬鹿である」という意味内容を表すのがconstative、「何やってんだ、しっかりしろ!」という励ましを示すのがperformativeである。そしてこの場合の「ズル」は、performativeな言い方である。きつい表現にはperformativeな使い方がなされているものが多い)。

 ぼくは志望者には、もがいて表現してほしいと思っている。ただ、ぼくの言葉を聞いて、鍵括弧の重書きを使う/使わないを判断するのは、志望者が行うことだ。ぼくは注意を促すけれども、それをどう受け取るかは、個人である。

 ぼくの願うところはこうだ(絶対に世間がこうでなければならないと思って言うわけではない)。ピカソはきっちりデッサンを学んだ上で、あの独特の崩しへ向かっていった。ぼくは、鍵括弧の重ね書きを使う人は、ピカソのようにきっちり文章のデッサンを学んだ人であることが望ましいと思っている(すでに今、そうなっていると思うので、それがつづくことを願っている)。また、安易な形で鍵括弧の重ね書きが使われることが少なければな……、「ここはこういう理由で、「」ではなく「「」」でなければだめなんだ」という強い明確な理由の下での表現を含んだ作品が多く生まれてくれればな、と思っている――今世に出ている小説の鍵括弧の重書きの表現が、安易な理由でなされているとは思わないけれど。

 志望者の子たちを啓発する方法は、いくつかある。「志望者は」という言い方で始めることもそうだし、「書き手は」「プロの書き手は」という言い方で記すのもその1つだ。「~するのがプロ」という書き方をすることによって、志望者の子たちに対して「そういうのがプロなんだ」と気を引き締めさせる、意識を高めさせるのも1つの方法である(恐らく志望者を前に教壇に立った時、多くの人が「プロは~」や「~というのがプロ」という言い方をする自分に気づくことだろう)。
 
 ともあれ、ぼくは、自分の言葉が多くの人にぼくの意図に近い形で届くことを願っている。ぼくのこの文章を読んで、表現ということ、表現しようともがくことに対して考えてくれる子、意識が変わる子が増えてくれればいいな、と願っている。ぼくの一連のツイートは、そのためにある。

 Twitterのフォロワーの方には鍵括弧についてはもうツイートしないよと宣言&約束したので(あまりに1つの話題についてツイートすると、読んでいる側はうざいと感じるようになる)、改めてnoteの記事として記した。

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鏡裕之
作家。ゲームシナリオを書いて26年。中世国際政治が舞台となるゲームをつくっています。高校生が城主になって活躍するラノベも書いてます。ゲームシナリオのハウツー本も書いています。拙著『非実在青少年論』の中で、東浩紀のデータベース消費を乗り越えるウロボロス消費を提唱しています。