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ラノベに差別を見出す者こそ、実はラノベに対して差別的で、心の受け皿を破壊しようとしているところがある

あるフィクション群に対して「差別だ」と指摘する方こそ、実は差別を行なっています。そしてそれに対して無自覚です。そういう皮肉な側面があります。

トロフィー・ワイフとは、社会的・経済的に成功した男性が結婚した、若く美しい妻のことを言うみたいですね。

でも、欧米に行き渡っている英雄神話では、英雄は魔物を倒して英雄となり、そのトロフィー・ワイフとして王女などと結ばれるものです。欧米は英雄神話の世界なので、そもそもトロフィー・ワイフが埋め込まれているということです。トロフィー・ワイフで批判するのなら、むしろ欧米社会の根底こそを真っ先に批判しなければならないということですね。ちなみに日本は英雄神話の国ではありません。日本のラノベをトロフィー・ワイフだと批判する人は、この不都合な事実をまず認識していない。

それから、フランチェスコ・アルベローニの『エロティシズム』によると、女性のエロティシズムとして、名声などの社会的・経済的に成功した男性に惹かれる、そういう男の妻になりたいというものがあるそうです。この不都合な事実に対しても、日本のラノベをトロフィー・ワイフだと批判する人は認識していない。

つまり、批判する側は浅学非才を隠して都合のいい事実だけをピックアップしているということです。そこに公正さはありません。女性のエロティシズムや欧米の英雄神話に潜む問題にはまったく触れずにラノベに批判の矢を向けるというのは、明らかに日本のラノベだけに対して批判的であり、日本のラノベに対して差別的です。

もう一度言います。日本のラノベに対して差別的です。日本のラノベのことを差別だと批判する人たちが、実は日本のラノベに対して差別的なのです。これはある意味、日本(のサブカルチャー)に対して差別的ということですね。

差別的なのは日本のラノベに対してだけではありません。日本のラノベなどの秋葉系文化を批判する人は、ほぼ間違いなく秋葉系文化に対して、そしてオタクや腐女子に対しても差別的です。自分自身が、ある趣味の人たちに対して差別的でありながら、己の差別性を隠して流行りの文句で自分を飾って正義の戦士の振りをしているのです。

ちなみにトロフィー・ワイフというのはめったにないことであり、事実上神話であるという指摘があるそうです。アメリカ・ノートルダム大学の社会学者エリザベス・マクリントックによると人が重視する項目を優先度順に並べると「教育→人種→宗教→ルックス」になるそうで、トロフィー・ワイフは非常に起こりづらいそうです。批判者は、めったに起こり得ない超レアケースを針小棒大に取り上げてぎゃーぎゃーわめいているということです。ただの迷惑な煽動野郎ですよ。

それから非常に重要なことですが、すべてのフィクションというのは誰かの心の受け皿になっています。ラノベもそうです。女性向けのTLもそうです。男性向けポルノ小説もそうです。必ず誰かの心の受け皿になっています。そしてラノベでヒロインがトロフィー・ワイフ的に描かれているとしたら、それは心の受け皿の機能を高めるためのものなのです。

そして心の受け皿というのは、その心の受け皿を必要としない人にはいびつなものに見えたり、醜悪なものに見えたりすることがあります。たとえば、男性にとっては白馬の王子幻想はいびつに見えます。しかし、女性にとっては男性の女性に対する幻想やハーレム幻想はいびつに見えるでしょう。心の受け皿というのは、それを必要としない人にはいびつに見えたり醜悪に見えたりするものなのです。

ところが、そのいびつさや醜悪さに引っ張られて批判する不見識の者がいます。人の心の問題を受け止めるためにそういう形になっているのに、そこに対して差別だのどうだのとくだらない批判をして受け皿を破壊しようとする人がいます。そのような心ない人が子供や女性のための社会を本気でつくってくれると思いますか? 心の受け皿を破壊して、果たして社会の安定性は増しますか? 破壊して、果たして弱者である子供や女性にとって安全な社会が実現しますか?

NOです。

秋葉系文化の批判者たちは、ただ自分が気に入らないと思うものを、カタカナを使って批判していい気になっているだけの自己満足野郎です。自己満足野郎にとって最優先は自己満足と自分の快感/不快感なので、他人は二の次三の次です。自己満足野郎は、決して他人に対して優しくありません。そういう優しくない人たちが、本当に子供や女性や他の男性たちが過ごしやすい社会を実現するでしょうか?

NOです。

先の質問に対しても答えましたが、あなたは政治の問題をあなた自身の善悪の問題――あなたが批判されない善の方か、批判される悪の方か――にすり替えてしまっています。あなた自身が、世間から悪とされる側に回ることに対して逃げてしまっています。悪と言われることを受け止められていません。

あなたの場合、政治と娯楽に対してどう向き合うかというのは政治の問題ではありません。自分が悪と批判されてしまうことに対して、どう向き合うかです。

実際に女性をトロフィー・ワイフ扱いしている成功者を叩かずに、フィクションの世界で心の受け皿としてトロフィー・ワイフを消費している読者を叩くのは、卑怯者のすることです。卑怯者の言葉に耳を貸す必要はありません。卑怯者がやっていることは、子供や女性という弱者の代わりに、秋葉系の読者という弱者を叩くことです。卑怯者の卑怯者たる所以です。

そんな卑怯者の言葉に、あなたが耳を貸す必要があると思いますか?

1つ、いいエピソードをご紹介しましょう。ぼくはポルノ作家なので、世間的にはevilな存在です。ぼくが生み出しているポルノ小説に対しても、evilだと批判する人はいるでしょう。

でも、2011年、東北大震災が生じた時。あの押し潰されそうな息苦しい不安の中で、仙台の男性から一通のメールが届きました。津波があって、まわりで停電があったりして非常に強い不安の中で、ぼくのポルノ小説を読んで、おかげで暗い気分を忘れることができたそうです。

ポルノ小説だって、人の心を救うのです。人の心に灯火を灯すのです。あの時、宮崎駿はこの時代に作品をつくってどうなるんだと頭でっかちな間抜けなことを吐(ぬ)かしていましたが、あの時だからこそ、エンターテイメントは人の心を救うのです。人の心に灯火を灯すのです。

トロフィー・ワイフと批判されるようなラノベだって、同じです。人の心を救うのです。人の心に灯火を灯すのです。それは紛れもない事実です。どこかの卑怯者が、ある作品群を批判したり非難したりしたからといって、その批判や非難に同調する必要はないのです。その批判や非難はまったく人の心のリアルを知らない、傾聴に値しない、出来の悪い悪口なのですから。非難されるべきはその非難の方なのです。

卑怯者が誰かの心を救うことも誰かの心に灯火を灯すこともありません。むしろ灯火を消すだけです。でも、あなたがかつて楽しんだ作品は、間違いなく誰かの心を救い、誰かの心に灯火を灯すのです。あなただって、心を救われ、灯火を灯してもらったはずなのです。そのことは全肯定してよいのです。


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