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ヘーゲル『精神現象学』がやろうとしたこと

1日で1000ページ超の、ヘーゲルの『精神現象学』を読破した。おかげでだいぶつかめた。

ヘーゲルの『精神現象学』はとかく難解で知られている。自分もほんとわからなかった。弘文堂の『ヘーゲル事典』

とか未來社の『ヘーゲル用語事典』

を読んで、ようやくついていけるようになった。それでも全容は把握できていなかった。

ぼく的に解釈すると、『精神現象学』は、意識の範囲が拡大発展していくプロセスを哲学的に書いたものである。発達心理学の考えで捉えるとわかりやすい。

赤ん坊は、まず自分の目に映るもの(対象)に対して意識が向かう。

赤ん坊「〔ものを指さして〕だー」
母「水」
赤ん坊「〔ものを指さして〕だー」
母「オッパイ」

こんなふうに、自分の目に映るものに対して意識が向かう。対象に意識が向かっている状態。対象意識の状態。

やがて、自分の目に映るもの(外の対象)だけでなく、自分に対しても意識が向かうようになる。自分に対して意識が向かうステージ、自己に対して意識が向かうステージに到達する。自己意識の状態。

さらに、自分だけではなく、自分と他の人も含めた「自分たち」(我々)にも意識が向かうようになる。「自分だけを意識」している状態から、「自分たちを意識」している状態、我々の状態。ヘーゲルは「我は我々、我々は我の状態」みたいな言い方をして、これが「精神」なんだと言ってる。精神とは、社会に対する意識の状態、社会まで範囲が広がった意識と考えるとわかりやすい。

さらに集団生活を営む中で、社会での決まり事、別の言葉でいうと習俗にも意識を向けて、習俗を取り込んでいくようになる。たとえば「ご飯を食べる前にいただきます」。いただきますをせずにご飯を食べようとすると、母親から「いただきますは?」。こう言われて、いただきますをする。こんなふうにして、社会での決まり、習俗を自分の中に取り込んでいくステージに達する。

さらに「横断歩道ではこう渡る」「赤信号ではわたらない」みたいに、的なものも自分のなかに取り込むステージに達する。

さらに、「はしたないことをしない」とか「人を殴らないとか」、そういう道徳的なものも取り込むようになる。

以上を『精神現象学』の言葉で言うと、

・対象意識(のステージ)
・自己意識(のステージ)
・精神(のステージ)
・習俗(のステージ。精神の1つ)
・法(のステージ。精神の1つ)
・道徳(のステージ。精神の1つ)

ということになる。本当は法と道徳の間に啓蒙が入るんだけど、専門家じゃないんでパス。道徳のステージの次に、宗教も取り込む段階が出てくる。最後に達するのが、絶対知。整理すると、

・対象意識(のステージ)
・自己意識(のステージ)
・精神(のステージ)
・習俗(のステージ。精神の1つ)
・法(のステージ。精神の1つ)
・啓蒙(のステージ。精神の1つ)
・道徳(のステージ。精神の1つ)
・宗教(のステージ。精神の1つ)
・絶対知(のステージ。精神の最高到達点)

西欧キリスト教圏で絶対が出てくると、だいたい。絶対王政は違っていて、あれは相対王政って感じだけど、他で「絶対」って出てくると、神。それも完全無欠&全知全能の唯一神ね。

日本には完全無欠&全知全能の神様というのがいない。世界を創造して法として機能して……みたいに、すべてをたった一人で独占しているような神様はいない。多神教の国なので、神様が細かく役割分担をしている。律部門別、細部別にいろんな神様がいるだけで、全知全能の神様はいない。世界創造だって、男女の神様が共同でつくってるしね。

でも、キリスト教には、たった一人で世界を創造して、世界に一人しかいない神(唯一神)がいることになっている。

この唯一神の権威を高めるために、日本の神様たちにはないものが付与されている。それが

・完全性
・無限性
・無謬性
・全知全能

これ、人間から逆算して出されてる。

人間は不完全→唯一神は完全
人間は有限→唯一神は無限
人間は誤謬がある→唯一神に誤謬はない(無謬)
人間には知ることとできることに限界がある→唯一神は全知全能

全部、唯一神の権威を高めるためのもの。たった一人しかいない神の権威を高めるために、完全無欠&全知全能にする。だって、「神にも誤謬があります」ってしたら、「この世の中がだめなのは、神が世界創造に失敗したからだろうが、バカタレ!」ってことになって、信仰が崩壊しますから。だから、唯一神を完全無欠&全知全能にする。日本人から見ると、思弁から取り出されたフィクションなんだけど、これを唯一神としてキリスト教は措定している。つまり、あるものとして設定している。

で。

・完全性
・無限性
・無謬性
・全知全能

以上を備えた唯一神を、我々はどうして「いる(存在している)」と考えるのだろう? どうやって唯一神を認識するのだろう?

これに対して思弁で答えを出そうとしたわけです。その時に使ったのが、古代ギリシア哲学なんです。

で、できあがったのが中世哲学

たとえばトマス・アクィナスなんかは、そもそも人間はどんなふうに認識してるんだろうって考えたりしてる。

唯一神の認識はこう。
天使の認識はこう。
人間の認識はこう。

こんなふうに整理して、「人間の認識とは……」と答えを出してる。ともあれ、どんなアプローチをするにしても、

・完全性
・無限性
・無謬性
・全知全能

以上を備えた唯一神がいるというのは確定なんです。日本人からすると、これほど不確定で、むしろありえないもの、否定されるべきものはないんだけど、西欧人は「完全無欠で全知全能の唯一神がいるんだ」と前提にしちゃうわけです。

ヘーゲルも同じです。実はヘーゲル君、若き頃に神学校に通ってるんですね。だから、彼の中には、

・完全性
・無限性
・無謬性
・全知全能

以上を備えた唯一神の存在があるんです。で、ぼくの解釈では、この唯一神の世界を知的・哲学的な言い方で表現したもの、唯一神の知的世界バージョンが「絶対知」なんですね。完全無欠な知的世界。意識の拡大発展史上、最高峰の完全無欠状態。

キリスト教の唯一神は、一言でいえば

完全なる支配者

です。某漫画を思い出そう(笑)。別の言葉で言うと、

完全なる創造者

です。さらに別の言葉で言うと

完全なる存在

です。キリスト教の世界では、人間は不完全で消えゆく存在です。でも、消えずにず~っと残るものがある。それを「実体」と西欧は言う。

絶対に消えないものは?

おれの屁?(笑)
バカ言うんじゃない。

完全無欠にして全知全能の唯一神です。キリスト教の世界では、実体は世界に一つで、それは唯一神です。キリスト教の世界じゃなかったアリストテレスは、実体は1つだけとは言っていない。でも、西欧キリスト教圏の哲学者は言っちゃうんですね。

もう一度言います。キリスト教の唯一神は、

完全なる支配者
完全なる創造者
完全なる存在

です。そしてヘーゲルが言う絶対知は

完全なる「知の世界」です。

完全知……知の世界の唯一神バージョン

です。
で、『精神現象学』の流れをもう一度やります。

・対象意識
・自己意識
・精神
・習俗
・法
・啓蒙
・道徳
・宗教
・絶対知

これ、最後だけ書き直します。

・対象意識
・自己意識
・精神
・習俗
・法
・啓蒙
・道徳
・宗教
・唯一神(の知的哲学的バージョン)

つまり、目に見える対象を意識することしかしなかったよちよち歩きの意識が、自己意識を経て精神(我々という社会や世間にまで範囲が広がった意識)となり、さらにどんどん意識の範囲を広げて習俗→法→啓蒙→道徳となって、さらに宗教となり、最後に唯一神のレベルにたどり着く。

対象しか注意しなかった意識がどんどん拡大発展して宗教となり、さらに完全無欠にして全知全能の唯一神のレベルになる、そのプロセスを、哲学的に書いてみせたのが『精神現象学』なんです。

『精神現象学』のベースには、人に宿って悟りを開かせる聖霊の考え、そして完全無欠で全知全能の唯一神の考えが、非常に強く潜んでいます。

でも、日本人には聖霊の考えはありません。全知全能という考えもありません。神に対するイメージが、日本人と西欧人ではあまりに違いすぎます。そのため、日本人が『精神現象学』を読んでもピンと来ないんです。難解なのは、ヘーゲルが「おまえ、物書きはやめろ! 下手だからやめろ! 文才ないからやめろ! おまえが書くと迷惑だからやめろ!」ってどつきたくなるくらい下手くそだからなんですが――。

訳本はこちらを参考にしました。


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