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なぜガンダムは日本でウケて欧米ではウケないのか?~ロボットSFがアメリカで流行らない理由~

なぜ、日本ではガンダムがウケるのに、欧米ではそうではないのか。つまり、「少年がロボット兵器に乗り込んで戦うロボット兵器もの」が日本ではウケるのに、欧米ではそうではないのか。

スタートとして、まず、欧米でのロボット観と日本でのロボット観を整理する。 

●欧米でのロボット観 
1.言葉をしゃべる、人間と同じ大きさのロボット……コミックリリーフ的存在 (C-3POとか)
2.言葉をしゃべる、人間よりでかいロボット……擬人的存在(トランスフォーマーとか) 
3.言葉をしゃべらず人と話をしないロボット……非感情的で、人間の敵 

人間がロボットという戦闘機のような兵器に乗って操縦するという考えは、欧米では希薄の様子。 

●日本でのロボット観
1.言葉をしゃべる、人間と同じ大きさのロボット……頼りになる存在(アトムとかドラえもん) 
2.人間が戦闘機のように乗り込んで操縦するロボット……少年が大人になって活躍するための乗り物(ガンダムなど) 

ロボットとは、「非感情的で人間の敵」という考えは、日本では希薄である。 

人間よりでかく、なおかつ人間が操縦しないロボットの場合、ジャイアントロボや鉄人のように、主人公の言うことを聞く怪物という感じ。人に飼い馴らされたモンスターのイメージ。 

よく知られていることだが、日本では、

少女が大人になって活躍するもの=魔法もの 
少年が大人になって活躍するもの=ロボット兵器もの


である。「少年が大人となって戦う」という姿(男の子の夢)が、日本のロボットもの、すなわち「少年がロボット兵器に乗って戦うロボット兵器もの」では重ねられているのだ。

ロボット観の違いを説明したところで、論を進めよう。

欧米では、英雄神話が根強い。 英雄神話とは、「自分が英雄となって難敵と戦い、倒して王妃をゲットして英雄になる」というものである。 

しかも、欧米では高い男性性が求められる。 その男性性(男らしさ)には、肉体的男らしさ(肉体的マッチョ)と精神的男らしさが含まれている。 

英雄神話と、高い男性性(肉体的男らしさと精神的男らしさ)が結びつくと、スーパーマンとなる。

「英雄神話」+「高い男性性への期待」=スーパーマン 

英雄神話と高い男性性への期待が、スーパーマンを生み、そして映画『ロッキー』を生むのである。

だが、主人公がロボットに乗り込んで操作してしまっては、肉体的男らしさ(肉体的マッチョ)を発揮する機会が奪われてしまうではないか。だから、欧米では、ロボット兵器ものというジャンルが成立していないのだろう。

対して日本。 

日本では、そもそも男の男性性は高くない。欧米ほどの高い男性性は期待されていない。 少なくとも、肉体的マッチョは、アメリカほど求められているわけではない。 

スーパーマンへの願望はアメリカより弱い。 
なおかつ、日本では英雄神話がない。 

日本で、男が大人になることとは、「組織の中で揉まれながら、精神的に逞しくなっていくこと」である。
 
ビジネスという戦いの中で揉まれて逞しくなることと、ロボットに乗って戦争の中で逞しくなることが重ねられているのだ。企業戦士、組織戦士の姿に、ロボットの乗り手が重ねられているのである。 

そこに、少年の自己実現願望(おれは凄いと感じたい、凄いという人になりたい!)がさらに重ねられる。 

その結果、少年がロボット兵器に乗り込んで戦う「ロボット兵器もの」が生まれる。 欧米ではロボット兵器ものが生まれず、日本では生まれてポピュラーになっているのは、そういうことである。

ところで。
ぼくは、欧米でガンダムがウケないことはないと思っている。 

ロボット兵器ものとは、「少年が大人になって活躍するもの」「大人と対等になって活躍するもの」である。「大人になって活躍したい」「大人と対等になって活躍したい」という願望は、世界の少年たちにもあるはずだ。 

だから、原理的にいえば、ガンダムはウケる可能性がある。 

ただ、欧米の場合、「少年が兵器に乗って戦争をする」というのが、倫理観の違い(恐らくプロテスタント的倫理観)から放送禁止にされてしまう。ガンダムはその対象になってしまう。 

なぜ欧米では放送禁止の対象とされてしまうのだろう。なぜ、日本ではそうはならないのだろう。

ぼくは、

1.暴力に対する受け止め方の違い
2.想像に対する受け止め方の違い


があるのではないかと思っている。

1.暴力に対する受け止め方について

欧米のキリスト教的な原理主義的な人と、多くの日本人では、暴力の受け止め方が違うのではないか、とぼくは思っている。

キリスト教的な原理主義の考え方からすれば、どんなものであれ人殺しにつながる暴力というのはすべておぞましく、絶対的に排除しなければならない
ものである。そういう人たちにとって少年少女は感化されやすい純粋なもので、少年少女にロボット兵器を通して暴力の洗礼を浴びさせるなど、あってはならないことなのだろう。そしてそう考える原理主義的な考えの人たちが働きかけて、放送禁止に持ち込んでいるのではないか、とぼくは勝手に推測している。

2.想像に対する受け止め方について

想像に対する受け止め方とは、

a.怪物に対する受け止め方
b.ロボット兵器を絵空事として捉えるかそうでないか

である。

a.怪物に対する受け止め方について

たとえば、日本は『ゴジラ』を生み出した国である。ゴジラは、生身の怪物である。怪物が機械になると、『マジンガーZ』の敵のロボットたちになる。『マジンガーZ』のロボットたちは、機械の姿をしたモンスターである。ある意味、機械化されたドラゴンである。

日本には、怪物やロボット兵器という想像力を受け止めてしまう土壌があるのではないか。それに対して、欧米では受け止める土壌が、少年少女にはあっても、一部の大人たちの間にはないのではないか。

もしかすると、英雄神話が影響しているのかもしれない。英雄神話は、敵(怪物)を倒してお姫様をゲットし、英雄になる物語である。

怪物の最たる象徴は、ドラゴンである。機械化され、電子化されて兵器となったドラゴンは、ロボット兵器である。ドラゴン=ロボット兵器を使うことは、キリスト教の原理主義的な人にとっては、悪魔の側につくことに見えてしまうのかもしれない。それは、人は清く正しく美しくあらねばならないと考えているキリスト教の原理主義的な考えの人にとっては、許しがたいものに見えてしまうのかもしれない。

b.ロボットものという絵空事に対する態度について

日本では、ロボット兵器というのは、一般的な大人の人からは、実現不可能なただの絵空事の乗り物として考えられているのではなかろうか。ロボット兵器を通した戦争も、絵空事として考えられているのだろう。つまり、現実の殺し合い、暴力としては捉えられていないということだ。

人がドラゴンに乗って異国人を征伐するのと同じレベル。ロボット兵器は、ドラゴンや一角獣と同じ、存在しないものとして認識されているのかもしれない。

ドラゴンに乗って異民族を蹴散らす姿を見て、「こんなのを子供たちが見ていたら、将来、ドラゴンに乗って暴力を振るう者が現れる」なんて言う人はいまい。

日本では、ロボット兵器についても同じである。ロボット兵器ものを見ても、「こんなものを子供たちが見ていたら、将来、ロボット兵器に乗って暴力を振るう者が現れる」とは、恐らく誰も考えていないのである。

だが、欧米のキリスト教的原理主義の考えの人たちは、絵空事とは考えない。ロボット兵器を殺戮マシーンとして捉えてしまう。

禁欲的であるとは、性と同時に暴力を排除するということである。それは、現実の行動であろうと、頭の中の妄想(≒フィクション)であろうと、区別は問わない。とにかく世界のすべてから、暴力は取り除かれなければならないと考えてしまう。
そしてそういう考え方をしている人にとっては、日本のロボット兵器ものは、子供たちが殺し合っている野蛮なものに見えるのだろう――そういう捉え方こそ、まさに野蛮であり、洗練されていない、文化的に遅れたものなのだが。

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