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『巨乳ファンタジー4』と原点回帰

原点の意味がぼくと読者との間で違ったために批判を喰らったのが、『巨乳ファンタジー4』でした。『4』はぼくなりに原点回帰を目指しているのです。しかし、原点回帰ではないと捉えて失望した読者がそれなりの数いました。

現時点で、今ぼくが把握している原点があなたと同じかどうか、確信を持てません。ぼくが原点回帰を目指しても、それが果たして読者が望む原点回帰になっているのか、それも確信が持てません。

確信が持てないのに、そもそも、原点回帰を目指していいのか。それ自体にも確信が持てません。原点回帰という言葉自体に、非常に不信感を懐いています。ぼくの中ではフロイトやラカンの学説と同じくらいファンタジーで信頼できないものになっています。

そういう状態なので、この場で「原点回帰します」と確約するような軽率なこと、不誠実なことはできません。原点回帰を目指しますとも、この場では申し上げられません。申し上げることもしません。申し上げれば、このような質問をくださった方に対して不誠実な行為になってしまうだろうと思っています。

原点回帰を目指してずれたという過去、ずれたという事実が、すでに確固として存在します。つまり、『5』でぼくが原点回帰を目指しても、読者の願う原点回帰とずれる可能性が確実に存在するということです。そのため、今ぼくが原点回帰を目指しても、目指すことによって逆に間違った点での自縄自縛になってしまうのではないか。また失望をくり返すのではないか。むしろ原点回帰を目指すということから離れた方がよいのではないか。作り手としてそういうことを考えています。

かつては原点回帰という言葉に魅力を覚えていましたが、今は不安と警戒しか覚えません。信頼できるもの、未来を確約するものには思えません。むしろ、原点回帰は読者との間に大きな溝を生じ、失敗を招く危険なもののように感じています。原点回帰というものに対して、ぼくが身構えています。非常に慎重になっています。

原点回帰を目指したにもかかわらず原点回帰ではないと否定・批判されたことは、ぼくの中には負の記憶として残ってしまいました。ぼくにとっては一つの傷のようなものになっています。原点回帰は不安の源泉、望まぬ結果を生む産地になっています。

でも、その捉え方は果たして迷妄で、間違っているのか?

原点回帰をめぐる捉え方がぼくと読者で違っていたのは事実です。原点回帰と言った時、少なからぬ人は『1』的なものを期待しました。シャムシェル的なものを期待し、ロマンス的なものを期待したのだろうと思います。

ぼくも『1』的なものを目指そうとしました。ただ、ぼくが考えていた『1』的なものとは、「底辺からのサクセス」でした。ぼくは原点回帰という言葉で、「底辺からのサクセスをしっかり描いたもの」を意味していたのです。底辺からのサクセスをしっかり実現したものをつくろうとしたのです。そのために主人公をエリートではなく本物の底辺にしました。ただ、その作業だけでは『1』や『2』と同じものになってしまうため、複数の国家的要素を加えました。それがアルメキアであり、ミノタウロス族でした。結果、シナリオボリュームは増大。ミノタウロス族が、底辺からのサクセスを支えるものとしてヒロイン以上の存在感を発揮することになりました。

で、評価は?

3.4MBという最大量のテキストを費やしながら、ぼくの中では「さんざんな結果だった」です。徒労多しの印象でした。Waffle公式サイトではシリーズ最高クラスの評価をいただいていますが、エロゲー批評空間では、シリーズ最低の評価を食らっています。おかげでエロゲー批評空間は二度と見たくない空間、消滅してほしい空間に変わってしまいました。この両極端の評価、評価のあまりにも強烈な分裂度合いのせいで、評価されたという印象は残っていません。むしろ、評価されなかったという印象だけが残っています。いろんな方から、よかったですよって声をTwitterでいただいているにもかかわらず。

エロゲー批評空間での意見に、まったく妥当性がないとはぼくは思っていません。しかし、あの乱暴な言葉、言葉の暴力性には今でも怒りを覚えています。乱暴な言葉を向けた人に対して向き合いたくないという気持ちが強く残っています。そういう方が自分のファンであるという意識はまったく持てずにいます。ぼくにとっては、ただぼくをバッシングした人という印象になってしまっています。

ただ、その人たちの言葉に耳を傾ける点がないかといえば、決してそうではない。耳を傾けるべき点はあります。彼らも一つの大衆性を代弁しています。ぼくを否定し批判した人たちが期待していた原点回帰には、恐らくロマンスが含まれていたのでしょう。シャムシェル的なものも含まれていたのかもしれません。

でも、もう二番煎じはつくれない。2人目のシャムシェルは存在しえない。ロマンスは注入できるし増量できるけど、注入したからといって「おれたちの望む原点回帰が来た~っ!」となるかどうかは、確信が持てない。恐らくそれでも「違う! どこが原点回帰やねん!」ってなるだろうとぼくは思っています。またバッシングされるだろうと思っています。つまり、原点回帰を目指してつくってもお客さんが「原点回帰だ!」と喜んでくれるとは、ぼく自身はまったく思っていないということです。原点回帰を口にすればするほど、逆にバッシングは――エロゲー批評空間での言葉の暴力性も――増えるだろうと思っています。ぼくにとって、原点回帰という言葉は、封印すべき存在へと変わりつつあります。

原点回帰に対してそれだけ警戒意識と不信感を懐いているのに、原点回帰を目指して果たしてよいものなのか。そもそも、自分が不信感を懐いているものを目指してよいものなのか。目指すべきなのか。

シリーズもかなりの長期シリーズになりました。その中で、原点回帰を目指すことについてメリットはあるのか。目指すことによって、時代との違いが逆に生じてしまうことになるのではないか。それによってシリーズ自体が終わってしまうのではないか。

そういうことも考え、恐れています。

過去シリーズへの意識により、自縄自縛的になって結果的にシリーズを損なうことをぼくは恐れています。それならば、自縄自縛の元は破壊した方がいい。自縄自縛の元となる意識を破壊した方がいい。いっそ巨乳シリーズというシリーズ名を忘れて、つくりたいように、読者が気持ちいいようにつくっていった方がいいのではないか。

原点回帰を目指せば、必ず過去のシリーズを意識してしまいます。その過去シリーズへの意識がマイナス効果を発揮してしまうのならば、過去シリーズも、そもそもシリーズ名も忘れて、自分が今つくりたいようにつくった方が、つまり、こうしたら面白いんじゃないかという感覚を一番頼りにしてお客さんが楽しいと感じるようにつくった方がいいんじゃないか。そのように考えています。そのために原点回帰への意識が邪魔になるのなら、その意識は横に置くべきだろうと思っています。原点回帰に向かって直線的に向かう、直進するということは絶対的に避けるべきだろうと。直進的に向かってぼく的には失敗したのが『4』なのですから。

なので、今ここで「ありがとう。原点回帰を目指したいと思います」とはお答えできません。「原点回帰は横においておいて、とにかく『5』に専念します」というのが今の気持ちです。ただ、結果的に、読者が原点回帰だと思うものになってくれればいいなと願っています。「結果的に、あなたが願う雰囲気が原点回帰のものになってくれればいいですね」が答えです。

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