アートマン(私)は存在しない?!by釈迦

ヤージュニャヴァルキヤは、「私(アートマン)」がいるという前提で論理を展開しています。
そして、その私(アートマン)の本質を知ることで、無敵の境地に達すると主張していたわけです。
しかし、その私(アートマン)がそもそもいない、と主張する者が現れたのです。
そう、釈迦です。

つまり、釈迦は「私(アートマン)なんて存在しないよ」と主張することで、古代インドの哲人たちのウパニシャッド哲学を虚仮(コケ)にしてしまったのです。

これは古代インドの伝統的な哲学を信じ、アートマンの本質を理解しようと必死に苦行に努めてきた人々にどれほどの衝撃を与えたことでしょう。

ヤージュニャヴァルキヤのめちゃくちゃ偉大なところは、「私とは、認識するもの(認識主体)である。」と、定義したことです。これは、どんな凶悪な懐疑にも耐えられる「真理」です。
しかし、同時にこうも言っています。
「認識するものを認識することは絶対にできない」

これは20世紀最大のカリスマ哲学者であるサルトルが「存在と無」の中で、言っていることと同じです。
サルトルは20世紀ですよ。それに対してヤージュニャヴァルキヤは紀元前600年頃ですよ。
東洋哲学の凄さがわかりますよね。

#なぜ釈迦はウパニシャッド哲学を完全否定したのだろうか

そもそも釈迦も「悟りの境地」である老病死の不幸を克服する境地を求めていたはずです。

それなのに、なぜ、こんなことを言ったのか?
それは、ウパニシャッド哲学にはひとつの致命的な問題があったからです。

それは「大衆というものは、必ず誤って理解する」ということを忘れていたことです。

ヤージュニャヴァルキヤは、「私の本質」を「アートマン」という言葉で定義していたのですが、
このアートマンは、「に非ず、に非ず」としか言えないものだったわけです。
別の言葉で言えば「私(アートマン)は、捉えることも害することもできないもの、である」と
そもそもヤージュニャヴァルキヤは伝えたわけです。
それを大衆は、そういう概念としてアートマンを認識しちゃったのです。
つまり、「私は〇〇である」という形式をやめようとしなかったのです。
これは、インド哲学について何も理解していないと同じなのです。

つまり、古代インドでは、このことを「踊り子」と「観客」という言葉を使って解説する伝統があるようですが、今日では「映画」と「観客」という言葉に言い換えた方がわかりやすいかもしれません。

真っ暗闇の映画館のなかで、たったひとりで映画を観ている人がいるという状況を想像してみてください。
観ている映画があまりにもリアルで素晴らしい出来栄えであったため、自分が観客であることを忘れてのめり込んでしまうことを。
映画の主人公に感情移入うしてしまうことを。
もちろん、どれほど感情移入して自分自身を映画の主人公と同化させようが、実際のところ、映画とそれを観ている観客の間には、何の関係もないわけです。
仮にその映画の内容がどんなに素晴らしい人間を映したものであっても、また惨めな人間を映したものであったとしても、「観客」が素晴らしい人間になったり、惨めな人間になったりすることはないはずです。

ヤージュニャヴァルキヤは、現実世界のこのリアルも映画と同じだと言っているのです。
ところが大衆は、映画の偉人伝を観ては、「うわー、俺って何て素晴らしい人間なんだ!」と大声で自慢してしまうのです。逆に「うわあー、俺は生まれて来なければよかった!」と悲嘆に暮れるのです。
傍から見ていたら、単純に「バカな奴」です。

問題を抱えている人に何て言って励ましてあげればいいでしょうか?
現実的な対処法をいろいろ教えてあげるより、
「落ち着け!これはただの映画だ!」で、一発で問題は消えてしまうのです。
ヤージュニャヴァルキヤは、「自己(アートマン)とは、鑑賞者(観客)であって、決して鑑賞物(踊り子)と同一のものではない。そして、どんな鑑賞物が現れようが、鑑賞者(観客)を汚すことも破壊することもできない」ということを言って、無敵の境地を指し示したはずでした。

ところが、残念なことにアートマンという言葉と、その概念が実体化できると勘違いが広まってしまったのです。
さらに、その無敵のアートマンになるためには苦行が必要だと勘違いをするひとが大勢あらわれ、その馬鹿さ加減を示すために釈迦も苦行をやめてしまったほどです。

ここから釈迦がテーマとしたのが「空」なのです。
さあ、ここから、受験生にとっても役立つだろう、「空」の解釈(科学寅流の)をしていくこととします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?