私とは何か?

多くの人たちは神と自分とは別々の存在だと思っているのではないでしょうか。

だからこそ、神なんていない、とか、天罰が下るとか、そうした表現をするんじゃないでしょうか?

だからこそ、「神の意図を生きる」といわれるとなんだか息苦しいし、不自由だし、何かを犠牲にしないといけないように感じるんですよね。
献身とか、自己犠牲とか、清貧とか・・・そういうことを要求されているように感じる人もいるかもしれません。

よく、自己肯定感が大切だ、と言われます。
でも、自分って、そんなに凄いところはないよな~って思いませんか?
客観的に冷静に考えれば考えるほど、落ち込んでしまいますよね。

自己肯定感が大事なのはわかってる!
でも何もない自分をどうやって肯定したらいいの!?
そんなふうに悩んでおられる方がたくさんおられます。
ところが、哲学的に考えると、私というのは、「神」なのです。

そんな!
このことに気づいたのは、私が高校3年生のときでした。
ふと、聖書のイザヤ書を読んでいたときです。

『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。』
イザヤ書41:10


聖書では、神である主がいつもすぐ、そばにいるんだから、「恐れるな」「恐れてはならない」と何度も何度もくり返されます。
しつこいくらいに。
なぜでしょうか?

もしかしたら、主と「私」が実は、一心同体だ、ということを言いたいのではないでしょうか?
だったら、聖書の主を私に置き換えて読んでみたら、別の真実が見えてくるのではないでしょうか?
常識的に見れば、目の前の問題に比して自分を見るなら、あまりにも弱く、小さくて見えます。
しかし、どんな問題よりも神様は大きく、強いのです。
神にとってむつかしすぎる問題は何一つありません。
だから恐れる必要はないのです。
問題は、私たちが今ここにおられる神様(私の真実)から目を離してしまうところにあります。
主は今ここにおられるのです。だって、私が神なんですから。
天の軍勢も私とともにいます。
何も恐れる必要はないのです。
シャローム、主は貴方とともにおられます。

God bless you!

宣言しましょう。

わがたましいよ、聴け!
『恐れるな。主はあなたとともにいる。
たじろぐな。主ががあなたの神だから。
主はあなたを強め、あなたを助け、
その義の右の手で、あなたを守る。』

#古代インド哲学では

西洋では、「世界の根源とは何か」「絶対に正しいことは何か」といったことを考え続けました。
すなわち、「人間の外側」にある「何か」について考えたのだと言えます。

そんな中で、アリストテレスという「万学の王」があらわれ、科学をはじめとする「外側の世界を把握し制御するための知識や技術の体系」が発達していったわけなんですが、東洋では、学問をサボっていたわけではなく、遅れていたわけでもないのです。
あえて言えば、東洋の「関心のベクトル」が西洋とは逆だったのです。
東洋では、インド哲学にしろ、中国哲学にしろ、西洋では科学に振り向けていた分のエネルギーと情熱は、東洋では「自己(私)」という「内側」の探求にすべて振り向けていたのです。

なかでも古代インドでは「自己とは何か」についての哲学的議論が活発であり、国中から識者を集めて公開討論の場をもうけるという風習まであったのです。
その場で常にぶっちぎりの勝利を重ねていた最強の論客が、ウパニシャッド(インドの奥義書)最大の哲学者と呼ばれるヤージュニャヴァルキヤ(BC650~550)でした。

彼の哲学は、いまでは「梵我一如」という言葉で知られています。
これは簡単に言ってしまえば、

「世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)」と
「個人を成り立たせている原理(我=アートマン)」が
実は「同一のもの(一如)」だよ、
という理論です。

そして彼はこう主張します。

『アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の真理」に到達する。』

始めてこれを聞くと、何か宗教っぽいし、古代人の迷信、妄想に思えるかもしれません。
いや、ところが、この「梵我一如」は現代にも通用する明晰で、明快な哲学となっているのです。

これは先日わたしが書いた、西洋のデカルトの哲学、「われ思う故に我あり」(人間である私達の認識はすべて間違いかもしれません。
すべて嘘かもしれません。
あらゆるものを疑うことができてしまいます。

でも、この世のすべてを疑えたとしても、
それを「疑っている私」がいるということだけは『疑えない』のではないだろうか!
たとえ、その疑っている私の存在を疑ったとしても、
やっぱり『疑っている私』がいることは真だから。)

つまり、たとえすべてが夢(虚偽)であっても、その夢を見て、夢じゃないかと疑っている自分が存在することそれ自体は、決して疑えないのだということです。
幻影を見せる悪霊だって、そもそも「幻影を見るもの」が存在しなければ、幻影を見せようがないのです。
結局、どんな懐疑にも耐えられるもの、それは、まさに「疑っている自分自身」だったのです。

このデカルトの思想をも超える哲学の金字塔です。

解説は後程、じっくりさせていただきますが、これが、私が「私が実は神である」と主張する根拠になっています。科学寅さんの単なる世迷言ではないのです。



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