空の哲学とは
「空」とは釈迦が直接唱えた用語ではありません。
弟子の龍樹が「般若経」にまとめあげたものです。
この経緯の解説はあとでするとして、
「色即是空」の般若心経でおなじみですよね。これは600巻以上の超巨大書物をたった262文字にまとめあげたもので、作者不詳です。
いろんな解説本が本屋に行くと売ってますんで、お好みのものを選んで読んでみてください。
ここでは、科学寅さんが考える般若心経の科学的解釈をお話します。
「色即是空」「空即是色」ですが、
これは「物体には実体が無い」という意味であり、それをラップ調に格好良く言っているだけで、単純に「A=B」をこれでもかと強調して言っているだけです。
龍樹の「空」は、釈迦が悟ったことのひとつ。「縁起」の概念を発展させたもののようです。
では、縁起とは?
それは「あらゆるものは、必ず何らかの縁によって起こって生滅をし続けており、永遠不変のものとしては存在しない」という釈迦一流の洞察です。
よく「ご縁があって、参加させて頂きました」のご縁です。
「たまたま知り合いに誘われた」「急に予定があいた」程度の「小さな間接的な原因」のことです。
龍樹はこの「縁起」に基づいて、「あらゆる物事、現象は相互の関連性によって成り立っており、確固とした実体としてそこに存在しているわけではない」と「空の哲学」を拡張させたのです。
この空の哲学は、現代物理学にも十分通用できるのです。
というよりも、現代の量子物理学者は、この空の哲学から量子論を立ち上げたともいえるのです。
たとえば、間違いなく物質として存在している鉄の塊を考えてみましょう。
鉄は鉄原子が集まってできています。
原子は、ご存知のとおり、原子核と電子という部品の組み合わせでそう呼ばれているだけであり、「鉄原子」という確固たるものがそこに存在しているわけではないのです。原子核と電子をバラバラに分解すれば、鉄原子は露のごとく消え失せてしまうのです。
そして、原子核も同様に、陽子と中性子からできています。原子核という確固としたものが存在しているわけではないのです。
陽子も同様です。陽子は複数のクォークからできています。
では、クォークこそが確かな実体なのか。いや、ここまで来ると、もう物質でもないということになってしまいます。
いずれにしろ、私達が普段、「確固たるものとして確実に存在している」と思っている「物質」でさえ、実は、パーティーのデコレーションと同様の実体のないものだったのだ。
つまるところ、私達は「ある要素の集まりからある部分だけを切り出して名前を付けていただけ」であり、その名前にあたるものが、「独立した確固たる。永遠普遍の何か」としてそこに存在しているわけではないのです。
#名前付けと因果関係について
さて、ここで「ある部分だけを切り出して名前をつける」ということについて、「どこをどう切り出したらいいのか」は決まっていません。人それぞれ好き勝手でやってもらっていいのです。
必ず、こう切り分けなければならない、という規則があるわけではないのです。
だから、たとえばですよ、自転車の「ハンドル」とその周辺にある「酸素分子」、そしてその向こうにたまたまあった、「郵便ポスト」。この3個をひとつの塊として切り出して、「カメハメハ」と名前をつけてもいいのです。
もちろん、それによって何らかの価値(メリット)を享受できるのでしたら、なお良いのです。
当然、ほとんどの人はこのメリットを理解できません。こんなことに名前をつけるなんて異常なことのように思えてしまいます。
だって、そんなものはもともと「無い」からです。
さて、ここまでは、空間上の静的なモノについての「色即是空」の話でしたが、同じ話は「事象(出来事)」という「時間軸上の動的なものお」についても適用できるわけです。
「空の哲学」のあらゆるものは相互関係によって成り立っているという概念を理解するには、こっちのほうがわかりやすいかもしれません。
理科で、あらゆる物理現象は『相互作用』である、と習いましたよね。
相互作用とは文字どおり「互いに作用する(影響を与え合う)」ということです。
現代物理学では宇宙に発生するすべての物理現象は「電磁気力、重力、弱い力、強い力」の四種類のどれかによって引き起こされており、このいずれもが「相互作用」であるのです。
つまり、「あるものが別のものに一方的に影響を与える」という事象は決して起こり得ないのです。
私達は、事象を「原因」と「結果」に分けて捉え、「原因→結果」という関係性を絶対的なものとして考えてしまいます。しかし科学的に考えれば、これらは個人個人の「思い込み」だ、ということが明確です。だって、相互作用しかないのですから。
さて、このように、私達が日常的に確実な存在として認識している物質Aや「事象AがBに○○した」というのは実のところ、僕たち個人個人の「思い込み」によって「そう見えているだけ」にすぎなかったわけです。
本来、世界の真の姿とは、「AともBとも言えないような、どっちがどっちとも言えないような、そんな全てがドロドロに混じり合った海のようなもの」なのです。
これが西洋哲学になると、イギリスの懐疑論のヒュームのようになって、「真の因果関係はわかりません」となるのです。
ということは、ここからが今日の私の本論です。
どうせわからないのです。
独断と偏見で、思い切って自分に都合の良いように断言してしまってもいいのではないでしょうか?
たとえば、入試に合格する人は「運のいい人」であって、
運がよくなるためには「自分が運のいい人だ」と思い込む人のことである、と。
そんな独断理論を次回並べてみたいと思います。
もちろん、それにはそれなりに理屈があります。
科学でさえあります。
でも、重要なのはこれらが真であるかどうかではありません。役に立つかどうかです。
出は次回をお楽しみに。
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