超越と内在3

 帰宅すると母がいる。

 とりあえず配布物の類はすべて食卓に置いて、テストの結果も特に何も言わずに全部置いておく。今回は珍しいことがあって自分が学年トップであることが明らかにされたわけであるし、今回の数学は満点である。私は多少の反応があることを期待していた。
 食事の時間までは自室に戻る。気象予報士試験まであと一か月近い。何度解いたかわからない過去問を繰り返し、ほとんど暗唱するように大気物理学の常識を叩きこむ。低気圧の前面に暖気域はあるか、上昇気流はあるか、トラフは西傾しているか、正渦度の流入はあるか。これくらいは知っていて当然、複数の天気図を読み込んでこの条件に当てはまっているかを詳細に検討する。ひとつずつ特徴をマークして答案にまとめる。
 時間はない。このままでは確実に落ちる。しかしどうすれば受かるのか全くつかめない。焦りと不安から不必要な項目まで暗記しようとする。答案をまとめるとω方程式を書き下し、傾圧不安定理論の要旨をまとめる。層厚の式を繰り返し導出する。これでいいのかどうかはまるでわからない。ただ過去問をなぞっているだけで、本当に気象学を理解していないのではないかという恐怖が背中を昇る。

 夕食の時間は守らなくてはならない。手を合わせて食事を始める。

「なんでここ間違えたの」

 母が答案用紙を読んでいる。理科は98点だった。なぜ2点ひかれたかというと「中生代」と書くべきところを「中世代」と書いてしまったからである。

「あんたこういう細かいミスなくさないと」
「わかってるって」
「わかってないでしょ。こんなしょうもないことで間違えてたら社会人になって足元掬われるよ」

 黙りこくってご飯を口にする。社会人になったことはないから、こういう小さなミスがどのような結果になるのか知りようもない。ただテレビニュースと一緒に小言を聞き流しながら、耐える。
 ほかの試験結果も大した理由では減点されていない。社会科については「御」の書き順を間違えた科で1点を減じられた。誠に恥ずかしながら、卸の牛と正を別々に書いていたのであった。答案用紙はいったんすべての項目に丸がついたあとで一個ずつ確認するようにインクの点々が残っていた。そしてようやく「御」の文字をみつけると、丸印を打ち消して1点が減点された。満点であっては困る教師の安心しきった顔がちらつく。

「漢字のミスばっかりじゃないの。しょーもな」

 そういわれるのはわかっていた。本当にしょうもないミスばかり。国語は引用箇所が足りず、英語は不規則変化を間違えた。

「あんたこういう基礎的なところができてないと、後々困るんだよ」
「基礎はできてるでしょ」
「どこができてるの。引き算もできないのに先先勉強して……」

 こういうときはとりあえずしょんぼりした顔をしておくに限る。反省とは自らの過ちを認めてこれからどうするか考えることではなく、叱られているときの演技をすることである。どうすれば納得するかは15年も生きていればなんとなくわかる。対外的には、いかにやり過ごすか。それ一点である。
 自分では大したことのないミスだと思っている。しかし言ってはならない。何時間拘束されるかわかったものではない。

 そのうち父親も帰ってきて食事をしながら答案をみている。どうなるかは分かりきっているのでさっさと入浴して自室にこもる。時間はないのだ。そして何をすればいいのか全く分からないのだ。とにかく思いつく限りすべての手段を取らなくてはならない。

 そのうち低い声で名前が呼ばれる。

「降りてきなさい」

 おそるおそる階段をおりる。険しい表情でふんぞりかえる父親の目の前に立つ。

 すべての減点部分について原因を確認され、追試が行われる。完全に解答する必要がある。今回は数が少ない分楽だ。

「数学だけはできたようだな」

 特にコメントがない、ということである。

「時間は余ったのか」
「余った」
「確認は」
「した」
「何回」
「できる限り」
「それでもこんな簡単なミスを見つけられないとは注意力散漫」

 ただ黙る。やり過ごすだけである。

「なぜミスした?」
「……」
「注意力が足りない。いつも焦ってバタバタして、落ち着きがない。先に先に進もうとして基礎固めができていないからこういうミスばかりする」
「……」
「大学の数学なんてやめなさい。まだ早い。こんな引き算もできないような小学生にできるもんじゃない」

 はい、などとはいわない。いいえとも辞めないともいわない。ただここではしょぼくれて、聴いているふりをして自由時間を勝手に気象学に充てるだけである。

「実力テストは受験の練習だ。このままだと受験当日も同じように間違える」
「受かるには十分な点数だと……」
「そうやって慢心すると」

聞き慣れた説教が始まりそうになった。しかし今回はいつもの試験結果とは違う。評価されるべきところがある。

「今回は……数学は満点で」
「数学だけだろ」
「……でも今回は学年一位で」
「だからなんなんだ」

 語気が荒くなる。見据える目はさっきを帯びている。やはり抵抗を試みてはならなかった。

「人より良くできるからって何なんだ。そうやって他人と比較して偉そうにして見下して、お前は謙虚さが足りない。学年トップだから偉いとおもってるうちはダメだ」

 やばい、長くなる。

「知っていると思うな。できてると思っているから間違える。自分はできてる、わかってると思い込んでいるからこういうところに顕れる。普段からみててわかるんだぞ、この前の忘れ物……」

 長くなる……何度掘り返されたかわからない、水筒を忘れた話。コーヒーをこぼしたはなし。日常の細かな失敗を掘り返され、注意力がない、傲慢、謙虚さがないと詰り続ける。基礎ができていないのに高校範囲を飛び越えて勉強していることにも言及され、ただひたすらに「基礎ができていないからやめろ」という。何の抗弁も通らない。
 「時岡」が怒られている感覚に陥る。父親の声が右から左、という感じではない。そもそも怒られているのは自分ではないのだ。こういうおっちょこちょいで、不完全な怒られ役の中学生が叱りつけられている。それを上から眺めているように静かに時を待つ。本人は放心状態である。おそらく何の言葉も入ってきていない。

 もういい、戻りなさい。と言われてから意識を自分に戻す。答案用紙をまとめて持ち帰り、自室に戻る。間違えたところがやけにおおきく目立つ。

 なぜ自分は完全ではないのか。

 なぜ自分は完全になれないのか。どうしてこのようなミスを繰り返し、いくら注意しても間違えて、簡単なことで貶められるのか。
 どうすればいいのだろう。間違えないようにするにはどうしたらよいのか。どこにその方法が書いてあるのか。父親は注意力が足りないというが、注意力を高める方法はあるのか。間違えないようにする方法は存在するのか。注意すれば注意力は上がるのか。
 500点満点のテストで5科目5点ずつ間違えると475点である。これ以上点数を上げようとすれば「間違えない」に尽きる。記憶に誤りはない。漢字の誤り、計算の誤り、落ち着き、冷静さ。完全でなければならない。完全になるためにあと5点足りない。

 完全な人間になりたい。覚えたことは忘れず、一つも間違えをせず、深く広い知識を持ち、すべてのことに気配りがきき、常に冷静で、温かい心を持ち、妬まれることなく、謙虚で、親しみやすく、優しく、愛されるひとに。
 実際にはまったく正反対である。間違えるし、忘れるし、落ち着きもないし、妬まれる程度には成績がよく、二時間の叱責をされるほどには間違いをする。自分のどこにも良いところはなく、すべてが短所、何もよいところはない。

 涙は出てこない。ただこの監獄から一刻も早くでていくだけである。高校受験、大学受験、気象予報士試験。時間は全く足りない。24時以降に電灯が点いていると叱られるので朝4時に起きて勉強する。一日8時間をそれぞれに割り振り、空いた時間には自分でまとめたノートを使って細かい事項を頭に叩き込む。休んでいる時間などなく、すべてを勉学に捧げる。

 つらくはない。苦しいとは思わない。そうしているほうが気が楽かもしれない。学問と試験対策をしている時間だけはすべての嫌な事柄から解放される。同級生、教師、そして両親。何をしてもケチをつけてくるのはすべて人間のすることであり、専門書は黙って受け入れてくれる。人間のすることはいつも気まぐれでどのように振舞っても必ず文句を言われるが、本は噛み砕くように読んで嚥下するまでじっくりと向き合ってくれる。

 人間は誰も信じられない。どんな人間も必ず悪意を以て向かってくる。親し気な顔をしている人ほど裏切る可能性が高い。信頼してはならない。味方は一人もおらず、誰も弁護するひとはいない。自分の身は自分で守るほかない。

 そう考えれば考えるほど、自分の置かれた環境に矛盾を覚える。この本、服、自分を作り上げている細胞という細胞、すべてが父の働いて得た金によってできている。依存仕切りの状況において反抗が許されるはずもない。一銭も稼いでいないものが三食を食べて布団で眠れるだけ幸いなのである。自分を構成するもののうち自力で得たものはひとつもない。親のおかげで生きさせていただいているのである。自分は自分ではできていないのだ。どれひとつをとっても、父の労働の成果である。

 はやく働きたい。気象予報士の資格を取り、家を飛び出て、バイトをしながら自力で食べ、自ら得た労賃で本を買い、学び、自力で大学に進み、真に自立したひとりの人間として生きていくのだ。自らの細胞は自らの労賃で賄うべきである。自らの知識もまた自らの汗によって得るべきである。

 早く家を出なければ。学校を出なければ。どこにも居場所はないのだから、誰からも疎まれて歓迎されていないのだから、帰結は一つ、

 自ら作るほかないのである。

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