もしも砂糖が甘ければ〜佐々木恵美の実験ノート第1話「あなたの黄色は変わらない」

もしも砂糖が甘ければ〜佐々木恵美の実験ノート

第1話「あなたの黄色は変わらない」

作:時岡結絃(ときおか ゆづる)
mail: yudzuru.tokioka.0824@gmail.com
twitter:@kagakuma

 特別教室棟、化学教室。そこにあの先輩がいる。先輩が卒業してから一年。恵美はこの日をずっと待っていた。何の約束もしていないから、恵美の存在すら忘れてしまっているかもしれない。でも、それでもいい。もう一度同じ時間を過ごすことに意味があるのだ。
 中学時代、先輩と一緒にいる時間は昼休みの30分だけだった。短かったけど、貴重な時間だった。先輩は広い世界を教えてくれた。だからまたもう一度会ったら、先輩が勉強しているところを横で眺めて、肩越しに広い世界を見せてもらおうと思う。そして、いつかは肩を並べたい。いつかは……。

 高校生活初日。入学式もつつがなく終わり、簡単なホームルームが済むとすぐに放課となった。自己紹介の時間もなくただ集まっただけの集団に、いきなり馴れ馴れしく話しかけるほど勇気のある人はそんなにいない。新入生たちは中学生の頃からの友人を見つけ、すぐに帰ろうと一斉に昇降口へと向かっていった。恵美は一人で教室を出たあと、階段を降りずに流れから外れた。人のいない廊下を一人歩く。少し肌寒さを感じる。ふと窓の外を見ると、一般教室棟と特別教室棟に挟まれた通りが真正面に見えた。外は気持ちのいい快晴が広がっている。昇降口から正門へ向かう通りからは、窓越しにも熱い喧騒が伝わってきた。さっさと帰宅することを試みる新入生たちと、一人でも多く部員を獲得しようと懸命な先輩方。詰襟姿の男子生徒が、セーラー服の先輩二人に行先を阻まれて動けないところを見つけてしまった。男の子って、どう声を掛けたらあんな悩ましげな顔をしてくれるのだろう。恵美はそんな考えを頭の片隅に置いたまま、再び目的地に向かうことにした。特別教室棟、化学教室。地図はない。そんなに広い校舎ではないはずだから、何に頼らなくても見つけられるだろう。恵美はゆらゆらと人のいない方へと歩みを進める。一人で迷い歩いていると、先輩の居場所がとても遠いところのように感じられた。それでも、恵美が今まで感じていた距離から考えれば、もうほんの少しのところまで来ている。そのことは確かだ。

 晴れて恵美は高校生に、摂津北山高校の生徒になることができた。といっても、そのこと自体は特別なことではない。田舎の高校なんて、選択肢はないに等しい。恵美の住んでいる地域の市立中学校で上位の成績を取り続けていると、この高校に入ることを強いられる。制服が可愛いとか、部活が強いとか、大学進学に力をいれているとか、そんな理由で高校を選ぶ世界が日本のどこかにあるらしい。恵美の住んでいる通学圏内にも、一応5つほどの高校はある。それはただ5つ存在するだけで、5つの選択肢があるわけではない。定期テストでこのくらいの点数を取れる人はここを受けましょう。練習で遠くの私立も一応受けておきましょう。多分使わないけどついでに面接の練習でもやっておきましょうか。進路指導とは名ばかりで、単に学区内の候補者調整をしていただけだった。将来やりたいことはなんですか? こんな進路もありますよ? などと生徒の意識を高めようと一応頑張ってはいたようだが、恵美の心には全く響かなかった。先生たちには感謝しているけど、既定路線なのに自由意志で選び取ったかのように錯覚させようとする態度にはさすがに辟易した。どこに行ったって、自分の人生に関わることは結局自分でやらないと意味がない。高校なんて当然どこでも一緒だ。一緒のはずだった。
 今は違う。たとえ既定路線だったとしても、その路線の先に先輩がいる。そもそも選択肢がないから、先輩のような人も同じ高校に押し込められている。もともと抵抗する理由はなかったが、先輩がいるのなら敷かれたレールというのも悪くないものだ。ありがとう既定路線。そのレールに乗って今ここにいて、そしてここから先のレールはない。ここからの一歩一歩は自分で選んでいく。

 恵美もセーラー服に身を包んでいる。上から下まで深い紺一色で、スカートも長い。はっきり言って地味だと思う。中学の友達も、暗い暗いと言って評判はよくなかった。恵美も最初は、どうでもいいと思いつつそれに同調していた。
 ある時期から、なんとなくこの制服を着た高校生の姿が気に入り始めた。高校生になったら、落ち着いた大人っぽい女性になりたいと思い始めたからである。人は地味だというけれど、この紺色が似合うような出で立ちになってみたい。髪を少しずつ長くして、おしとやかなイメージを目指し始めた。去年より背も伸びたし、胸も膨らんだような気がする。大人っぽくなったと思いたい。そうなっているはずだと思う。
 実は昨晩、恵美は気が逸ってこっそり試着してみたのだった。似合っているかな。似合っていると言ってくれるかな。恵美を見たときの先輩の反応を想像して、少し顔が熱くなるのを感じた。ぼんやりと考えながら、恵美はそのうち姿見の前でくるくると回り始めた。長いスカートがふわっと広がるのを見て、はしゃいでいる自分が恥ずかしくなった。まだ登校すらしていないのに。恵美は反省して、決意を固め直してから制服を脱いだ。

 化学教室は特別教室棟の二階にある。それだけの情報しかなかったので恵美は不安だったが、一般教室棟から繋がっている廊下を進んで角を曲がるとあっさり見つかった。教室の扉を前にして、恵美は制カバンを開いた。一年ぶりの再会に備えてコンパクトを取り出す。鏡に映る自分は頬が緩んでいた。前髪を整えて、襟が左右対称になっていることを確認した。一度深呼吸をして、緩んだ顔を引き締めてから「よし」と心の中で頷いた。そして、そっと教室の扉を開けた。しかし、そこには誰もいなかった。
 化学教室に普通の机はなく、白くて長い実験台が実験室の奥に向かって二列に並んでいた。壁には棚があり、試験管などが揃えられているようだ。ひとつひとつの実験台は二つに分かれていて、それぞれの台の真ん中には深いシンクがあった。実験台の上には丸椅子が裏返しで乗せられている。一番黒板に近い実験台の椅子は下ろされていて、その代わりに二つの三角フラスコが放置されていた。恵美が中に入ろうとすると、どこかで嗅いだことのあるようなつんと鼻を刺すような香りがした。この香り―というよりは異臭-にはぴんとくるものがあった。確か、刺激臭という名前がついていた記憶がある。そんなことよりも、この異臭が待ちに待った感動の再会を台無しにしてしまうのではないだろうか。恵美の肩から力が抜けた。そもそも、先輩が今日ここにいるのかどうかもわからない。化学教室の入り口にいつまでいても意味がないのではないか。仕方がない。帰って明日出直そうか。そう思ったそのとき、教室奥にあるドアが開いた。

「あれ、いらっしゃい。見学かな?」
 白衣を着た長身の男子生徒が歓迎の言葉を述べながら扉を閉じた。短髪で、爽やかな甘い顔をしている。恵美は何となくサッカー部員のような印象を受けた。割とかっこいい。彼女が何人いても不思議ではないだろう。学年章は紺色、三年生らしい。さっき教室で聞いた服装規定を完璧に守って、詰襟は全て留めてフックまでかけている。こういう雰囲気の人は「校則は破るためにある」などと言い出しそうだが、意外と真面目なのかもしれない。
「すみません、理学部って、この教室であってますか?」
 差し当たって場所の確認はしておきたい。こちらに歩いてくる先輩に、恵美はよそ行きの高い声で話しかけた。
「そうだよ。ここは理学部の部室……ではないけど、よく使っている化学教室」
 サッカー部風の先輩が、持っていた追加のフラスコを机に並べながら答えた。180 cm は優にありそうなのに体の線が細く、身長のわりに威圧感を覚えなかった。
「この部活に片岡さんっていらっしゃいますか?」
「ああ、片岡くんなら今薬品倉庫だよ」
 恵美は胸をなでおろした。それなら少し待たせてもらおう。そう思ったが、このほのかな悪臭の中で待つのは躊躇われる。恵美が化学教室の扉の前で入ろうか入るまいかと迷っていると、その様子を見た先輩が、丸椅子を下ろしてから「どうぞ」と言って勧めた。
「片岡くんならすぐに帰ってくると思うから。ここで待ってたらいいよ。今から実験もするし、よかったら見ていってよ」
「ありがとうございます」
 親しげに話す先輩を前にそう言ったはいいものの、一歩を踏み出す気になれない。
「あの……すみません、換気扇回ってますか?」
「換気扇? ああ、また回し忘れた」
 これあんまり意味ないんだよね、と言いながら、先輩が教室端にぶら下がっている紐をカチカチと引いた。換気扇がガーッと音を立てて回り始めた。正常に動いたとしても、直ちに効果があらわれるものではない。
「あんまり気分のいいものではないけど、すぐ慣れると思うから。実際、俺はもう慣れてしまってて何も感じない」
 左様でございますか、と露骨にため息をつくところだったが、それは子供っぽい。恵美は再会を感動的に演出するのを諦めることにした。勧められた椅子を引き、仕方なく実験器具の前に座って目的の先輩を待った。

 目の前にフラスコが三つ並んでいる。先ほどの先輩が、金属製の支柱とガスバーナーを机に置いてから、恵美の向かいにあった椅子に座った。
「申し遅れましたが、理学部長の村上です」
 先輩は恭しく頭を下げ、シンプルな自己紹介を済ませた。サッカー部ではなく、理学部の部長だったらしい。恵美もそれに合わせて軽くお辞儀をした。
「佐々木です」
 簡単に苗字だけ伝えると、理学部長は「佐々木さんね」とひとりごちた。肘をついて、頬に顔を当てている。彼の肩書きには強い違和感がある。
「理学部長って、なんだか大学教授みたいですね」
 恵美は思いついたことをそのまま言った。それを聞くと理学部長はあははと明るく笑った。
「もちろんわざとそう呼ばれているんだよ。大学の理学部で一番偉い人みたいに聞こえるでしょ?」
 理学部長は、訊かれてもいないのに肩書の由来についてペラペラと語り始めた。
「この高校、『ほうがくぶ』ってのがあるのは知ってるよね?」
「はい。お琴が上手で全国大会常連だとか」
 恵美は少し目線を上にそらしながらゆっくりと口を開いた。それに比してこの先輩は、まっすぐこちらの目をみながら、饒舌に話を続けた。
「そうそれ。それがさ、弁護士を目指す方の『法学部』に聞こえるよね」
「ああ! はい、最初そっちだと思いました」
 やっぱりみんなそう思うのか。恵美は口許を緩めた。
 摂津北山高校の新入生は、ほとんどが『ほうがくぶ』の存在を知っているはずだ。入学説明会の時、説明が始まる前にその腕前を披露してくれたからである。恵美もそこで存在を知った。その演奏の前に「次は『ほうがくぶ』による演奏です」とアナウンスがあった。そのときの出席者の多くは脳内で誤変換を起こしたらしく、会場がにわかにざわついた。正しくは『邦楽部』と書くらしい。そのことはパンフレットの部活実績欄を読んで知った。
「そうそう。それで昔に理科系の部活を作ることになった生徒と先生が、冗談で『法学部があるんだから理学部があってもいいだろう』って言いだしたらしくって、こういう名前になった」
「そういうことだったんですね」
 冗談みたいな名前と思ったら、本当に冗談で命名されてしまったのか。そしてそのまま定着してしまったらしい。この高校も変わったところがある。
「それだと、工学的なことをしたい人は理学部で活動できるんですか?」
「その辺はあんまり区別してないよ。うちは実験もするし、工作もするし、なんなら山にだって登る。みんなでスキー場に行ったり、キャンプしたりもね」
「結構幅広いんですね」
「いろんな人がいろんな目的で在籍してるから、キャンプの時だけ現れる人とかもいるよ。佐々木さんも、できれば毎日顔をだしてくれると僕らは嬉しいけど、自分のしたいことをやれることが一番大事だから」
 すでに恵美が入部することは決まっているかのような口ぶりで一通り話し終わると、部長は少し身を乗り出した。耳打ちをするように「ところで」と小声で前置きをした。
「片岡秀作に用事?後輩とか?」
 ニッとした意地悪な笑顔が目についた。訊かれるだろうなとは思ったけれども、会って間もないうちから心の中に踏み込まれるような態度を取られては身構えてしまう。
「そうといえば、そうですね」
 はい、と素直にそう答えればよかったのかもしれない。なんとなく気恥ずかしさが勝ってしまって、恵美は曖昧にしか答えられなかった。
「あ、もちろんこの部活の見学がメインなんですけど」
 奥歯に物が挟まったような説明に、部長が笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「登校初日から見学にくるなんて熱心すぎるよ。秀作とは何か浅からぬ関係があるの?実は昔の恋人とか?」
「いえいえいえいえ、そんなことはないです。全然、全く」
 恵美は思わず両手を振った。
「そう? 隠すところが怪しいなあ」
 この人は真面目そうな見た目に反して割とズケズケ来る方なんだな。恵美は少し距離を取ろうと思った。顔はかっこいいけれども恵美には合わないタイプだ。
「ただの後輩ですよ。話すと長くなりますけど……」
「えー?やっぱりなんかあるんじゃんね」
 何もないですよと、恵美は困り笑顔でかわそうとした。恥ずかしさはともかくとして、恵美自身が先輩との関係について正確に説明できる自信がない。確かに中学生の頃はよく話したとは思うのだけど、自分が一方的に眺めていただけに等しい。そうすると、先輩からみて自分がどう映っていたかなんて知る由もない訳で。というより、憧れの先輩を追いかけてここまでやってきました! なんてことを言わなきゃいけないのだろうか。そんなことは気恥ずかしくて恵美には口にできなかった。

 恵美が返答に困っていると、再び教室奥のドアが開き、プラスティックの瓶を持った白衣の生徒が現れた。170 cm を超えたくらいの少し高めの身長。髪型はぼさっとしていて、寝癖だけは直しましたという感じだ。切れ長の目の、その無愛想な顔立ち。恵美は思わず立ち上がった。
「片岡先輩!」
 心拍数が上がっていくのを感じながら、先輩に駆け寄った。片岡先輩はハッとこちらを向いて、そして答えに困るような質問をされた時にする懐かしい苦笑いを浮かべた。
「えーっと、中学生の頃に会ったことある?」
「そうです。図書当番で。佐々木恵美です」
 恵美の顔をじっと見てからすぐに目をそらし、少し考えた後で先輩の顔がパッと明るくなった。
「ああ! 佐々木さんか。覚えてるよ。髪が長くなったから一瞬わからなかった」
 そういうと、先輩は優しい笑顔を見せた。恵美のことはすぐに思い出せなかったようだが、確かに髪型も制服も変わってしまったので仕方ないかもしれない。とりあえず忘れられていたわけではなかったらしい。その事実だけで恵美は十分に満足した。
 突然始まった同窓会に、ゆっくりと近づいてきた部長が割り込みを試みた。
「同中?」
「そうです。中学時代の後輩で、いろいろ教えてたんですよ」
 片岡先輩は平坦な口調でミニマムに説明を済ませた。
「なんだそれだけか。最初からそういえばいいのに」
 部長が唇をつまんだ。そうそう、それだけなんですよ。恵美は心の中でそうつぶやいた。

「教えてたって、本の整理とか?」
 首を傾げつつ、部長が片岡先輩に対して質問を重ねた。
「いえ、化学のこととか、物理とか数学とか」
「お前中学生の頃からそんなことしてたのか。また難しい本読んでたんだろう」
 部長が笑いながら片岡先輩の肩を強く叩いた。
「そんなに難しくないですよ。あの頃は教養課程くらいのもので」
「私には十分難しかったです」
 思い返すと、先輩は中学生らしからぬ本ばかり読んでいた。有機化学、量子力学、線形代数学……。いつか同じ目線で話がしたいと思って以来、恵美自身も自力で追いつこうとはした。それでも、何を話していたかは明確に思い出せるのに、それが本当に何を意味しているのかは結局わからなかった。
「そうかな、割と僕の説明を理解してたような気がしてたんだけど」
 片岡先輩が頭の後ろを掻きながら言った。困った時の癖も変わっていないらしい。恵美の頬が少し緩んだ。
「この部活でも難しい本読んでるんですか?」
「難しい本っていうほどのものは読んでないつもりだよ。最近は面白い実験を探して過ごしてる」
 中学校の図書室では当然ながら実験はできない。だから恵美の知っている先輩の姿は、本を読んでいるときの印象しか残っていない。目の前にいる片岡先輩は白衣姿だ。その姿を初めて見るが、とても似合っている。恵美は先輩が試験管を振っている姿を想像した。そういう姿も眺めて過ごしてみたい。
「時々塾講師の真似事をするんだよな」
 部長が横入りしてきた。
「別に塾講師になりたいわけじゃないですよ。大久保先生がいないときに代わりに質問捌いてるだけです」
「割と評判いいらしいんだよな。こいつ教え方うまいからさ。佐々木さんが教えてもらってた頃からそうだったの?」
 恵美は頭の中の白衣姿を慌ててかき消して、部長に向き直した。
「あっ、はい、そうですね。中学生の時は、私が普通に受験の質問とかした時とか解説うまいなって思ってました。でも片岡先輩の趣味について話してた時はさっぱりでした」
 ある時期から、図書室で見かける片岡先輩に定期的に話しかけていた。今日の本はなんですかと話を振ると、待ってましたとばかりに解説をしてくれた。いつも片岡先輩が一方的に話していて、そのうち昼休みが終わってしまう。その熱心な口ぶりを聴くために話しかけていたと言っても過言ではない。そのときの話は理解できなかったなりにだいたい頭に入っている。
 でもそんな思い出は今は心にしまっておくことにした。やはり恥ずかしい。先輩と同じくらい賢い人になりたいとは思うけれども、きっとそれからどうこうしたいとは自分でも思っていないんだろう。けれど、ただそれだけのはずなのに、先輩に対する自分の気持ちは誰にも話したくないと考えている。

「そうそう、タンアン切れてたんで新しいの開封する許可もらってきました」
「OKOK。それで遅れたのか。じゃあ予備実験を始めよう」
「今から実験やるんですか?」
 恵美が部長に訊き返した。
「そうそう、明日の放課後にやる演示実験をテストしようと思って。佐々木さんも見ていけばいいよ」
「そうですね。じゃあお言葉に甘えて……」
 待ち望んでいた感動の再会もそこそこに、三人で実験器具一式の前に移動した。
「どんな実験なんですか?」
 恵美が片岡先輩に話しかけると、部長が代わりに答えた。
「そうだね。見てのお楽しみって感じだけど、色が変わって見た目にも面白い実験だよ」
 恵美はちょっと口を尖らせたが、片岡先輩は実験の準備をしているので仕方がないものと思うことにした。目の前に三つのフラスコと、ガスバーナー、マッチ箱、金属製の支柱がある。あとプラスティック製の柔らかそうなチューブがいくつか転がっている。三つのフラスコにはゴム栓がなされていて、そのゴム栓には二つの長短ある管が刺さっていた。二つの管は同じ長さだけ外に顔を出していて、柔らかくて曲げられるチューブと接続することができるようだ。反対にフラスコ内部に伸びている方の長さは二つで違っていて、一方はフラスコの底にまで届くほど長く、もう一方はほんの少しの長さしかない。
 部長がチューブで三つのフラスコを繋げた。その間に片岡先輩は試験管を取り出し、試験管の口に同様のゴム栓をはめた。そして、支柱から伸びたハサミで試験管を固定し、口が下に向くようにして、底にバーナーの火がちょうど当たるくらいの位置になるように試験管の高さを合わせた。準備が調うと、試験管のゴム栓から空のフラスコにチューブで接続した。
 都合、試験管から空のフラスコに管が通り、そのフラスコから水の入ったフラスコへ繋がり、さらにそこから最後のフラスコに繋がっているという具合である。
「じゃあ新しい学部生に問題を出そう。今からやる実験の原理を当ててみて」
 部長はそういうと棚から小瓶を取り出した。二つ目と三つ目のフラスコの栓を開けると、小さなビーカーに水道水を汲み取った。水を二つのフラスコに分けて入れ、それぞれに小瓶の薬品をポタリと一滴だけ落とした。二つのフラスコのなかで、水が淡い緑色に染まっていく。
「この薬品がなんなのかは中学校の理科の知識でわかると思う。で、秀作が持ってきたこっちの薬品だけど……文字通り鼻を刺すような刺激臭だから気をつけて」
 片岡先輩が、手に持っていた新品のプラスチック瓶のビニールを破り、ゆっくりと蓋を開けた。なるべく顔を近づけないように気をつけているようだったが、
「うっ!」
 ダメだったらしい。大きな声を出して、咳き込みながらすぐ蓋を締めた。
「やっぱ慣れないなこれ……鼻に針が刺さったみたいだ」
「気をつけろよー」
「次は大丈夫だと思います」
 そういうと先輩はまた恐る恐る蓋を開けて、スプーンで素早く白い試薬をとりだした。それを試験管に入れ、チューブ付きゴム栓をした。
「っぷはーつらい」
 プラスティック瓶の蓋を慌てて締めると、そう漏らした。息を止めてやり過ごしたようだ。さっきから教室に漂っていた匂いはこれだったのかと、恵美は納得した。
「そんなに臭いんですか?ちょっと気になります」
「いやこれは臭いとかじゃない。鼻を殺しにきてる。そういう好奇心は発揮しないほうがいい」
 片岡先輩が落ち着いた声で恵美をたしなめた。先輩からそんな風に注意されるのは初めてのことだった。注意されているはずなのだが、先輩の新たな一面を垣間見た嬉しさのほうが勝って叱られている気がしなかった。
「本当に気になるなら終わってから人のいるところで嗅いでみてね。ひとりでやると最悪死ぬので。じゃあ実験を始めるよ」
 部長がそう宣言して、実験が始まった。

 片岡先輩がガスバーナーにガスを通してからマッチに火をつけ、バーナーにそっと点火した。試験管の底にある白い試薬が炙られている。しばらく加熱すると、水の入ったフラスコに沈む長いチューブの先から、ポコポコと泡が立ち始めた。白い試薬は加熱されるごとに少しずつなくなっていき、試験管の口には水滴がつき始めた。ふとみると、二番目のフラスコはいつのまにか緑色から青色になっていた。最後のフラスコは徐々に黄色へと変化していった。
「実験成功、かな?」
 二人が色の変化を確認して、片岡先輩がガスバーナーを静かに止めた。フラスコの水は最初緑色だったはずなのに、一つの試薬を加熱すると別の色に変わってしまった。しかも別々の色に。確かに不思議な実験だ。
「よし、じゃあこの実験の原理を当ててみて。なんで二つのフラスコが別々の色になったのか」
 恵美に問題が出された。一から十まで教えてくれる訳ではないらしい。恵美も不思議だったので、訊かれる前からなぜこうなるのか考え始めていた。少し考えたところでなんとなくアタリはついていたが、確信が持てるほどではない。ただ、高校に入学したての人に訊くことだから、中学校の理科の知識で答えられるだろうと考えた。
「多分、最初にフラスコにいれた薬品は BTB 溶液だと思うんですけど、合ってますか?」
「正解。どうして?」
 部長が畳み掛けてくる。さっきのねっとりした下世話な質問とは打って変わって、目の前で起きた事件を解明するべく真っ直ぐな口調だった。
 さて、少し考えてみよう。反応して変色する物質は無数にある。その中からこの物質が何であるかを探し当てるのは困難だろう。ただ、そんな色とりどりに変色する物質などというのは、さすがに限られている。
「最初は緑色で、それが青とか黄色とかに変化するのはそれしか知らないので」
 恵美は考えを巡らせた後で、簡潔にそう答えた。
「そうだね。指示薬にはいろいろあるけど、この色の変化をするのはこれしかないはず」
 そういうと部長は、小瓶のラベルを見せてくれた。太い字で BTB と書いてある。
「これが一段階目、もう二段階ほど謎が残っているね」
「この色が変化した理由だけじゃないんですか?」
「とりあえずその問いを考えてみよう。この色の変化はどうして起きたのか」
 この色の変化が起きた理由。BTB溶液ときたら、理由は明快だ。
「最初のフラスコがアルカリ性に変わったから青色に、次のフラスコが酸性に変化したから黄色になった。そういうことですよね」
 部長はそれを聞いて、片方の唇を上げた。
「合ってるけど、あともう一声かな。一つの試薬を加熱して出てきた気体からどうして二つの色が生まれたのか」
 確かに。恵美はそこの理由までは考えていなかった。一つの試薬を加熱しただけなのに、二つの色に変化するのは不思議なことだが、それはなぜだろうか。
「そうですね……水を通すとアルカリ性から酸性に変化する物質、というのは考えにくいし」
 恵美は少しうつむいて顎に手を置いた。アルカリ性の物質が酸性に変化した可能性は? 気体を水に溶かした時の液性は一つに決まっているから、水に通したからといって変わるものではないと考えるべきだけれど……いや、水の中に別の物質が入っていてそれと反応して気体が発生して、ということはあるかもしれない。
「準備してるところからずっと見てましたけど、はじめにフラスコに入れたのは普通の水道水ですよね」
「そうそう、そこは単なる水だと思っていいよ」
 水に溶けていた何かと反応したという線はつぶせる。つまり、アルカリ性の物質が酸性に変化したという仮説は放棄してよくて、そうすると……
「最初から二種類の気体が発生してた、ってことでいいですか?」
 部長が目を見開いた。仏頂面のままの片岡先輩も、口許が締まるのが見えた。
「おっ、その通りだね。じゃあなんの気体かわかるかな」
「そうですね……刺激臭がするので多分片方はアンモニアなんじゃないかと思います。ひとつめのフラスコが青色に変わっているわけですし。もう一つは……酸性の気体ってたくさんありませんか?二酸化炭素と、塩化水素もそうですし、塩素ガスもそうだし……」
 恵美が目を上に走らせていると、この様子を見ていた片岡先輩が目をそらして何かを仄めかした。
「そんなに危険なガスは発生させられないよ」
 確かにその通りだ。恵美はその言葉を聞いてピンときた。
「あ、でもアンモニア以外の匂いがしなかったということは、無色無臭の気体だから二酸化炭素しかないんですね」
「そうだね。正解は二酸化炭素。つまりアンモニアと二酸化炭素の混合気体が試験管から発生したんだよね」
 部長がそういうと、プラスティックの試薬瓶を持ってラベルを見せてくれた。炭酸水素アンモニウムとある。
「炭酸水素アンモニウムは加熱分解して二酸化炭素とアンモニアを発生する。名前から類推がつくね」
 名前からして化学式は NH4HCO3 なのだろう。炭酸水素イオンとアンモニウムイオンがくっついているから、加熱して分解し、水と二酸化炭素とアンモニアが生まれる。
NH4HCO3 -> NH3 + H2O + CO2
「では最後の問い。なぜ二つのフラスコは、同じ色ではなく別の色になったのか」
「えっと、どういう意味ですか?」
 酸性とアルカリ性の二つの物質ができたんだから、二つの色に分かれてもいいとは思うのだけれど。
「混合気体がフラスコに入ったのだから、アンモニアのアルカリ性と二酸化炭素の酸性が混ざった色のフラスコが二つできてもおかしくないでしょ? つまり二つのフラスコは同じpHになって同じ色になってもよかった。それなのに、なんで二つのフラスコは別の色になったのか、考えてみて」
 なるほど、そういうことか。でもこれの答えはすぐにでる。
「アンモニアは非常に水に溶けやすいですが、二酸化炭素はアンモニアほどじゃないから、ですよね」
 部長がうんうんと何度も頷いている。
「素晴らしい。そうそう、最初のフラスコには発生したアンモニアが全て溶けて、二つ目のフラスコには溶け残った二酸化炭素が溶ける。そうするとこうなる」
 恵美はよく考えられた実験だと思った。高校入試にちょうどいいレベルかもしれない。ただ、この人たちは明日ここでまた新入生に対して高校入試をやるつもりなのだろうか。そうなのだとしたら、相当理科が好きな人以外は嫌がるかもしれない。
「これ、明日も実験してから新入生に同じ質問するんですか?」
「ん? そのつもりだったけど、もしかして簡単すぎたかな」
「この高校の一年生なら普通に解けるレベルの問題だと思いますけど、単純にもう高校入試の口頭試問みたいなのは受けたくないですよ」
 ああ……と二人が顔を見合わせてため息を漏らした。
「これやめます?」
 無表情のまま片岡先輩が部長に訊いた。部長は顔に手を当てて考えていたが、すぐに結論を出した。
「実験自体はやろう、佐々木さんも面白かったでしょ?」
「実験自体は面白かったですよ。でも質問責めっぽいかなって」
「なるほどね。また秀作と話し合っておくよ」
 結局、口頭試問自体はやるつもりらしい。恵美にはそれが敬遠されないよう祈ることしかできなかった。
「とりあえず、片付けましょう」
 片岡先輩が腕時計を見てから撤収を提案した。
「そうだな。僕は試薬を戻してくるから、二人で皿洗いしといて」
 部長は先ほども見せたニッとした含みのある顔を見せて「それじゃ」といって薬品庫に戻っていった。この人は気が利くのか無遠慮なのか。何にせよ一年ぶりの二人きりの時間をくれたことについては、恵美は素直に感謝した。

 実験器具を一緒に洗いながら、二人はしばらく無言のままだった。先輩は一年前と同じく自分から話しかけたりはしないし、恵美は恵美で何を話せばいいのかわからなくなっていた。また会えて嬉しいですとか、ずっと待ってたんですとか、そういう気持ちは湧き上がってくるのだけれども、言葉にしていいものではない。ちらちらと横を見ていると、先輩は平坦な表情のまま実験器具をテキパキ洗っていた。
「元気にしてましたか?」
 無限に続くかと思われた沈黙の後で、先輩の顔を見ないままやっと言葉をひねり出した。
「割と元気にしてたよ。受験勉強は厳しいものがあるけどね」
 恵美が気を揉んでいたことなど全く気づかないで、一年前と同じように先輩は自分の話を始めた。
「まだ二年生になったばかりなのに始めてるんですか。先輩、受験なんて余裕なんじゃないんですか?」
 恵美がそういうと片岡がまた苦笑いをした。その表情には懐かしさを覚える。確か似たようなやりとりを中学時代にもしたことがあったのだった。
「手広くやらないといけないし、高校範囲だって突き詰めるとちゃんと理解してなかったりするし、余裕ではないよ。ちゃんと勉強してる」
「じゃあ大学の勉強は封印ですか?」
 先輩は相変わらず手を止めないまま、んーと声を漏らした。
「それはないかなー。結局数学も物理も化学もちゃんと理解しようとしたら高校範囲からはみ出るからね。ここに来たら議論する相手もいるし」
「議論する相手、ですか?」
 恵美は片岡先輩に顔を向けた。別に先輩を特別視している訳ではない、と恵美自身では思っていた。確かにある程度以上の成績の人は全員この高校に入るから、事実上青天井だ。それでも、先輩ほどの人と議論が成立するほどに知識と頭脳がある人がこの部活にいる。考えてみればなんの不思議もないのだが、実際にいるとなると身が震える。昔の恵美は一方的に教えられるだけだったし、いつか恵美自身がそうありたいと思っているならなおさら。
「片岡先輩と議論できる人なんているんですね」
 先輩は笑って首を振った。
「いやいや、普通にいるから。部長もああ見えて賢いし、あと大槻さんっていう人がいてすごく頭が切れる」
 薬品庫から戻ってきた賢い部長から「ああ見えては余計だぞー」という茶々が入った。
「賢い方多いんですね。私がいたら足引っ張っちゃいますかね」
 フラスコを洗いながら、恵美が自嘲気味に頬を緩めた。そんな恵美の表情は一切見ないで、片岡先輩はフラットに言葉をかける。
「佐々木さん普通に賢いと思うよ。あと、ここは別に頭いいひとしか来てはいけないというルールはないし」
 恵美から手渡された最後のフラスコを洗い終えると、先輩はキュッと蛇口を締めた。
「来るもの拒まず、去る者追わず。やりたいことをやりたいひとがやりたいようにやる。だから佐々木さんもここに入るつもりがあるなら、何も気にしないで好きなときに来て好きなことをしていけばいいよ」
 洗い物がないことを確認してから、先輩はテーブルの上に腰掛けながら言った。恵美もハンカチで手をふくと、近くに置いてあった椅子に座った。
「そうですね、でもたぶん、毎日来ます。また色々教えてくださいね」
「教えられることなんてあるかなあ」
 片岡はまた頭をかいた。そんなに困るようなことなのだろうか、と思ったのだが、ある意味では謙虚さの表れなのかもしれない。
「ありますよ。たくさん。いつも読んでる本のこと教えてください」
「それは逆だよ。僕自身もわかってないことが書いてあるんだから、自分で考えて理解しないといけないよね」
「ああ……それはそうですね」
 そういうと恵美は目を閉じて頬に指を当ててから、少しの沈黙を経て
「じゃあ、また一緒に考えませんか」
 と、二人きりで過ごした中学時代の延長を提案した。
 教室が一瞬静まり返った。恵美は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「そうだね。誰かと話してるとわかることもあるし」
 対して、先輩は特に気にも留めていない様子ではあった。でも、とりあえず断ることはしなかった。
「そうですよね! じゃあ、これから一緒に勉強しましょうね!」
 恵美は先輩を真っ直ぐに見て、上ずった声で答えた。もちろん断るような人ではない、というのは分かっていた。きちんと約束されたことには大きな意味がある。
 その様子を見ていたらしい部長が、例の意地悪そうな笑顔をしながら近づいてきた。
「で、お二人さんは中学時代どういう関係だったわけ?」
 また面倒な質問をしてきた。
「特に何の関係もなかったですよ。いろいろ話はしましたけどね」
「そうですよ。ただの図書委員長と図書当番というだけです」
 ね、と言って恵美は先輩に確認した。先輩は何も返してくれなかった。
「なんか怪しいなあ」
 一方で部長は、向かい側に座って身を乗り出して話を聞こうとしている。そんなに詮索して何が面白いのだろうか。
「部長本当にこういう話好きですね。掘り返しても本当に何も出ませんけどね」
 片岡先輩が笑って受け流す。実際本当に中学時代は何も起きなかったし、自分自身も起こそうとはしていなかった。先輩だってそうだろう。掘り返しても本当に何も出て来ない。単に二人で勉強してただけだ。
 でもこれからはどうすればいいんだろう、と恵美はふと思う。さっき中学時代みたいに一緒にいることは約束した。それで十分なのだろうか。ううん、いつか同じレベルで議論できるように頑張って、先輩の読んでいる本を一緒に読んで、それから、それから……まあそのままでいいか。そんなことを頭の中でぐるぐると考えた。

「今日は紅茶あるんですか?」
 片岡先輩が振り向いて部長に訊いた。
「ないんじゃないかな。大槻さん今日は来ないって言ってたし」
「紅茶って何ですか?」
 片岡先輩に訊いてみる。
「ああ、さっき言った大槻さんって人が紅茶党でさ。この部活、なぜか茶葉とか茶菓子とか揃ってるから16時ちょうどに紅茶を飲んでゆっくり話す時間ってのがあるんだよ。毎日じゃないけどね」
「そうなんですね。私も紅茶好きなので楽しみです。結構ゆるい部活なんですね」
 放課後に紅茶をいただく午後のひと時。とても優雅な時間が過ごせそうだ。
「いや、紅茶の時間は割とガチな議論が起きるから、ゆるゆるとお茶を飲んでのんびりしているわけじゃないんだ」
「議論ですか? あ、さっきの話ですか?」
「そう。大槻さんが来ると物理の話が多いかな。一度来てみるといいよ。大槻さんは議論好きでね。あ、怖い人じゃないんだよ。物理のことになると熱くなるというか」
 なるほど。あなたも化学の話になるとそうですよ? と恵美は言いかけたが、やめた。
「何かに熱くなるっていいことじゃないですか。私は好きですよ」
 大槻先輩とも仲良くなれたらいいなと、恵美は素直にそう思った。
「大槻さんも喜ぶと思うよ。あの人は人間ができてるから、素人質問しても面倒がらずに答えてくれるし」
「大槻先輩、優しい人なんですね」
「優しいというか、まあお嬢様って感じかな。普段は物静かで上品な雰囲気だよ」
 恵美はそれを聞いて顔を歪めた。
「えっ……お、お嬢様って存在するんですね。私は見たことないです」
 恵美は平静を保っているかのように、思ってもいないことを口にした。中学時代に一切女気のなかった片岡先輩が、毎日ここにきて紅茶をすすりながら女性と、それもお嬢様と談笑している。ふむ。
「僕らの住んでる緑中は新興住宅街だからね。青葉台中学の近くは割と高級住宅街じゃない?」
「ああ、青葉台ですか。それはお金持ちかもしれない……」
「まあ、それを鼻にかけるような人じゃないし、会ってみると気さくに話してくれるいい人だよ」
 片岡先輩が女性と談笑している姿がどんなものなのか想像、というより妄想が無限に膨らんでいく。恵美は頭を強く振って打ち消した。少し気持ちを切り替えよう。部長は今日一日で十分に馴れ馴れしい人だと理解したが、多分何かを察して気遣いするくらいはできるいい人なのだと思う。大槻さんという人もきっとそうだ。理学部にはいい人ばかりだ。片岡先輩を追いかけて来てみただけだが、恵美個人にとっても居心地のいい場所になりそうな予感がした。

「おーい、そろそろ閉店ですよー」
 また教室奥の扉が開いた。丸眼鏡をかけた真面目そうな男性が顔だけ出して帰宅を促している。先生らしい。そういえば入学式でみたような気がする。恵美がその様子を見ていると、先生と恵美の目が合った。
「あれ、もう新人入ってるの?」
「この子割とやる気っぽいですよ。なんか秀作の後輩らしくって」
「こんにちは、佐々木です」
 恵美はとりあえず顧問らしき先生に一礼した。そうすると先生も扉から出てきて挨拶をした。
「ああ、大久保です。ここの顧問。といっても、ほとんど準備室にいて実験とかは任せてるけどね。村上君も片岡君もしっかりしてるし」
 そういうと、片付けが終わっているならそろそろ帰るようにと再度促した。
「そうですね。じゃあ、帰るか」
 部長がそう言って制カバンを肩に掛けようとしたとき、大久保先生が苦い顔をして言った。
「あと、換気扇は回しっぱなしにしておいて。さすがにアンモニアが漏れたままだとまずい」
 三人とも全くそのことに気付かなかったのでハッとした。部長の言った「俺はもう慣れてしまってて何も感じない」という言葉の意味を、恵美はいま実体験として理解した。

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